輝きのなかで
傍に寄って、そのうちの一つに軽く触れてみた。まだ固く、開くにはしばらくかかりそうであった。赤く縁取られた別の蕾にも指先を押し当てた。こっちはスポンジのような感触が伝わってきた。
大志は、ホームレスと同じような仕草で蕾に顔を寄せた。
不意に、蕾が話しかけた。
(老人は、自らすすんでここに着たのだ)
その蕾をスケッチブックに描いている。
薄暗くなった部屋で、大志は机に向かっていた。
母が亡くなってから、ろくに掃除をしていない室内は、コンビニ弁当の空箱や汚れたシャツ等が散乱していて、ホームレスがいるあのベンチと変らなかった。
ある程度描き上げたところで、スケッチブックを目の前に掲げた。出来ばえなんてどうでもよかった。ただ、描いてきた時間の流れを漠然と思い浮かべた。
一度深呼吸をして、スケッチブックを手に持ったまま椅子に反り返り背を伸ばした。その行為を何度も繰り返した。その度に、椅子が軋む鋭い音がした。
闇が迫ってきた。
スケッチブックを置き、立ち上がった。
扉の脇にある蛍光灯のスイッチを入れると部屋全体がありありと浮かび上がった。
ゴミ溜めみたいな部屋の中央に引き返し、大の字に寝転んだ。
身体をよじり、壁伝いに視線を這わせ、目に映るものを口に出してみた。
最後に、描きかけの蕾に辿り着いた。
(つぼみ)
その言葉を口にした途端、リアルさを失っていく周りにものたちに、大志は再び闇のなかに沈んでいった。
仕事から戻った大志は、最近いつもするように、コンビニで弁当とウーロン茶を買い込み、自転車を走らせた。
ホームレスがいる公園に着くと、中央にある噴水を挟んだ対面のベンチに陣取った。
鞄を枕にして、寝転んだまま身動きひとつしないホームレスをちらちら見やり、弁当を広げた大志の満足そうに形作られた笑みにふと不安が混ざった。
近々、公園課と警察が合同でベンチの不法占拠ということでホームレスを退去させにくる手筈になっていると叔父から聞いていたからであった。
ペットボトルのウーロン茶を飲み干した大志は、ベンチに横たわった。頭の後ろに組んだ左肘が背もたれにあたって窮屈に感じた。
夕闇に包まれた公園には、大志とホームレス以外の姿はなかった。面した通りからは、アスファルトを叩く家路を急ぐ靴音が、フェードアウトを繰り返していた。
園灯が点灯したのを合図に、大志は首を擡げた。
スポットライトを浴びた舞台のセットのような老人とベンチ裏の樹木を眺めた。
(蕾は開いたのかい?)
彼らに問い掛けた。沈黙の後、白い光を纏い老人を包み込むような樹木の葉が微かに翻ったような気がした。
その時、大志は思った。
公園を追い出されても、樹木が消え失せてしまっても、老人の背後には、きっとあの樹木に咲くという赤い花があることだろう。
掌を後頭部に戻し、目を閉じた。
ベンチからはみ出した足の感触が無くなってきていた。結ばれた鎖から解き放たれたように身体が軽くなり、いつの間にか大志は心地よい眠りについていた。
翌日、午前午後と別の公園を清掃して周り夕刻に再びこの公園を訪れた時には、ホームレスの姿はなかった。
軽トラを噴水の並びに停め、カメラと黒板を持って降り立つと、改めてベンチに目をやった。
黒いバックが、背もたれの角に掛けられており、ベンチの周りは何時もにも増して乱雑だった。
清掃道具を噴水の傍に置き、トイレ裏の配電盤に向かった。
配電盤を開け、タイマースイッチを切ろうとして、伸ばした手が止まった。
トイレの外壁に黄色い閃光が走った。
二度三度・・閃光は何度も繰り返された。
大志は振り返った。
区役所の巡回パトカーが、今にも水滴が落ちてきそうな真っ黒く染まった天に向かって回転灯の光を放っていた。
駆け巡る稲妻は、大志を目掛けて真っ直ぐに向かってきた。
思考が停止し、その場に佇むだけの大志のすぐ手前で、左に折れベンチと平行に停まった。
「ご苦労さん」
助手席から年配の男が降りてきて、大志に声を掛けた。
「さぁ、始めますか」
運転席にいた若い男が、荷台のドアを開けそこからダンボール箱を取り出し、ホームレスの荷物に手を掛けた。
「ゴミは持っていってもらいましょうか」
若い男が、年配の男に話し掛けた。
「そうだな。ついでだしな」
ホームレスの荷物を持っていくように言われた大志であったが、光に混乱したまま、微動だにもしなかった。
「君」
二人の威圧的な視線に、やっと気付いた。
「ゴミは持っていってよ」
「いいんですか」くぐもった声が出た。
「頼むよ。貴重品はうちで預かるから」
「貴重品なんて無いっすよ。ゴミばっか」
若い男が笑いながら、横槍を入れた。
「ホームレスは……」
「あいつ午前中に倒れたんだよ。警察と一緒に退去指導に来た時。心臓に持病があるとかで。大分興奮してたからな」
「大変だったよ。救急車もきてさ」
若い男は愚痴りながらも手際よく荷物を選り分けていた。
そういている間も、黄色い光は、勢いよく宙に弧を描いていた。
荷物を片付け終わった区の職員に、地元自治会の腕章をした人達が近寄ってきた。
再度ホームレスが着たら、すぐに水道を止めてはどうか。寝転がれないようにベンチの真ん中に障害物を取り付けてはどうかなどと一方的にしゃべるその人達に、区の職員はひたすら低姿勢を徹していた。
脇をすり抜けた大志は、軽トラからゴミ袋を取り出し、すぐに踵を返した。
中腰になり、ゴミとして分別されたものを拾っては袋に詰めていった。
樹木の根元に転がっていた洗面器に手を掛けた。これが最後であった。
拾い上げた大志は、立ち上がる動作に合わせて、光の発信源を正視した。
等間隔で強弱を繰り返し、忙しなく放たれる光が、大志の画面を占拠した。
周りの景色が霞んでいき、記憶が欠落していった。
よろめいて樹木に凭れ掛かった。乱舞する黄色い光のなかに、赤が現れ、夢中でそれに鼻を押し当てた。
一気に吸い込んだ花の香りに、光が一層溢れ出た。
圧倒的な力が全てを消し去るそのなかに全てを感じた。
(離さない)
朦朧となって、光に向かっていった大志は気がつくと、パトカーの運転席で動かない車のアクセルを踏み続けていた。
叔父のとりなしで、仕事を続けることはできたが、半年程勤めた後、自らの意思で大志は退社を申し出た。
あの時感じた、光とともにあった確かな自分、根源的な自分を見出す為に。
金子さんの家は、海沿いの通りから、ふみちゃんが通う小学校の南東にある小道に入り裏門に至る道とは反対側に伸びる坂道の途中にあった。
レンガ造りの洒落た建物の周りにはサザンカの生垣が張り巡らされていた。
生垣の切れ目に、表札が掛っており、その下にカラフルな文字で絵画教室と書かれた板が取り付けられていた。
ふみちゃんが「よし」という掛け声と伴に呼び鈴を押した。
すぐになかから返事がして玄関のドアが開き、眼鏡の奥に、にこやかな皺を寄せたおばあさんが姿を現した。
年は取っているが、しゃんとした姿でふみちゃんを出迎えた。
「こんにちは」
「こんにちは。お嬢ちゃん、何か御用なの」
腰を屈め、額をふみちゃんに近づけた。
「お祭りのポスターのことなんだけど。金子さんに聞けばわかるって……」