輝きのなかで
マスクを宛がい、ゴム手をはめ、トイレットペーパーと汚物の跳ね返りに注意しながらホースで水を放ちブラシで擦った。水切りで排水口に水を追い込み、小便器のプッシュボタンと大便器のレバーを押して水を流し、最後に請負の件名と今日の日付が入った黒板を男子トイレの入口に据付、清掃後の写真を撮り、女子トイレに移動して同じ作業を繰り返した。
手馴れたものであった。
トイレ清掃が終わると、マスクを外し大きく深呼吸をした。
先程、掃除をした噴水からは子供達の歓声があがっていた。そのなかには、苛立った仕草で清掃が終わるのを今か今かと待っていた少年の無邪気な笑顔もあった。
大志は、無表情のままその笑顔の前を通り過ぎ、公園内に3つ設置されているゴミ箱を順々に回り、その都度ゴミ袋を交換した。
3つの大きなゴミ袋を肩に担ぎ、空き缶や雑誌などの目に付くゴミを拾いながら園内をひと回りして噴水の横に止めた軽トラまで戻った。
荷台でゴミを手際よく分別し、袋の口を縛り上げ、道路パトカーがいないのをもう一度確認してから用具を回収しに軽トラをトイレまで走らせた。フロントガラスの隅には、老人が先程と同じ格好のまま死んだように目を閉じているのが映っていた。
車止めの鍵を閉め、公園を後にして5分程で大志の叔父が経営する清掃会社に着いた。
会社といっても、社員5人に仕事が入った都度に雇うバイトがいるだけの小規模なもので、それに似つかわしく、叔父夫妻が住む自宅の庭に建てられた掘立小屋みたいなところであった。
一階のジャワー室でシャワーを浴びた後、二階にある事務室へ上がった。
「お疲れ様」
経理担当の義叔母が、麦茶を片手に癖になった営業用の甲高い声で大志を迎えた。
「叔父さんは?」
「営業にでてるけど、もうすぐ帰るって連絡があったわよ」
大志は、麦茶を飲み干し作業日報を書き始めた。
「今日、役所が来たよ」ボールペンを親指の周りで器用に回転させながら言った。
「めずらしいわね」
「初めてだよ」
「何か言われた?」
「いや。でもトイレのところまで車を入れている時でなくてよかったよ。噴水までしか入れてはいけないことになっているからさ」
まだ、他の社員は戻っていないらしく、閑散とした雰囲気の室内がいつもより余計際立って見えた。
大志は、ホワイトボードに来週の予定を巻き込み、それが終わると明日の予定を確認した。
「なんか、今日の大志ちゃん、張り切っていて楽しそうね」
義叔母の意外な言葉に、腕組みをしていた腕の筋肉が、反応したように、ピクリと動いた。
義務室のドアが勢いよく開き、叔父が帰ってきた。
「大志、お前が担当している公園にホームレスがいるだろ」
叔父は、忙しなさそうに麦茶を飲み、手に持った書類に目を通しながら言った。
「公園課に寄ったら、そんな話がでてさ。地元の住民からの苦情で役所も困っているらしいぜ」
低く広がった鼻にぶら下がった眼鏡を一瞬大志に向けた。
「ただ、ベンチに寝ているだけだよ」
「だから役所も困ってるんだよ。追い出す理由がなくてさ……何でも、奴は大会社の重役だったって話だぜ」
「それって本当なの?」
義叔母が興味深そうに口を挟んだ。
「本当、本当。役所が身元を確認したらそうだったらしい」
「何でそうなっちゃったのかしら……家だってあるでしょうに」
「知らねぇけど。でも家があったらホームレスじゃないよな」
叔父は自分で言った気の利いた言葉に気をよくして得意げに笑い声をたてた。
「今日、役所が来たのって、そのせいかしらね」
義叔母の同意を求めるような声色に大志は頷くしかなかった。
JR高円寺駅から続く大通りを青梅街道まで南下し、青梅街道を西へと大志は自転車を走らせた。
丸ノ内線新高円寺駅とJR高円寺駅方面へ向かうカラー舗装が施された商店街入口が重なる辺りの人混みで、大志は一旦自転車を降りた。
迂回する道はいくらでもあるのだが、一時の間、人混みのなかに同化する行為に魅力のようなものを感じていて、いつもそこを通って帰宅していた。
家に着いた時、時計は午後6時を少し回っていた。いつもなら、母が帰宅している時間だが、玄関のドアには鍵が掛っていた。
「ごめんね。すぐにご飯作るからね」
大志が、冷蔵庫のなかを物色していると、ドアが開く音とともに母の声が飛び込んできた。
テーブルの上に無造作に買い物バッグを置いて、母は大志の脇をすり抜け流し台に向かった。
「個展に行ってきたのよ。だから遅くなってしまって」母は忙しなく俎板の上で手を動かせていた。
大志はバッグのなかからスーパーの名前が入ったレジ袋を取り上げ、母に手渡そうとした。
「そこに、個展のパンフレットが入っているでしょ」
「病院には行ってきたのかよ」大志は、バッグのなかをちらりと覗き見た。
「いつものようにお薬をもらっただけよ。大志、そのイラストレーターのこと好きだったでしょ」
キャベツを千切りにする手際よいリズムが響き始めた。
「私も久しぶりに絵を描きたくなったわ。大志がイラストレーターの学校に行っていた頃に真似事で描いてから、もうずいぶんになるわね。」
「医者は何か言っていた?」
「何かって?」
「検査受けろとか、入院しろとか」
「そんなこと言ってないわよ」
レジ袋からジャガイモを取り出そうとする母の所作から真偽を読み取ろうとしたが、無駄だった。
「すぐにできるからね」
部屋に戻っていく大使に母の柔らかな声が届いた。
部屋の壁には、大志が描いた水彩画とイラストが何枚かピンで留められていた。机の隅には光をモチーフにしたイラストが描きかけのまま置かれていた。
それらには、目もくれず大志はベットに横たわり、昨年流行った映画のレンタルビデオをセットした。コメディー映画だったが、面白くも無く、疲れもあって瞼を閉じた。
闇のなかを映画の早口な言葉が洪水のように駆け巡った
苛立つような、急かされるような心持が、闇のなかに安住することを許してくれなかった。
(笑うか)決心したように見開いた目に、ぼんやり壁に貼られた絵が映った。
トイレの入口に(ただいま清掃中)と書かれた看板を置き、大志はいつものように、最初に男子トイレの清掃に取り掛かった。
何故という程一日で汚れるものだが、今日は特に酷かった。
小便器に酔っ払いが吐いたらしい汚物が溜まっていて、一定の距離をとり、そこに向かって放水した。汚物色に染まった水が小便器から溢れ、足元の排水口まで流れでた。
溢れ出す水が透明になると、水圧を上げ便器の目皿に残っている汚物のかす取り出しにかかった。
隠されていた汚物の元は野菜だろうか赤や緑が混じり、綺麗だとさえ思えた。
大志は、それらを見つめ、ホースを持った手を下から上に小刻みに動かせた。
放物線を描くような動きに集中した。
(早く、大きく)大志は心の内で叫んだ。
大志は手を動かし続けた。
(もっと早く、大きく描け)
いつの間にか、便器に近寄り過ぎていたらしく、水が顔に跳ねた。慌てて、袖口で拭い洗面台で顔を洗った。
顔を上げると、鏡に歪んだ面輪が映った。鏡に付いた水滴をタオルで取り去り、もう一度覗き込んだ。
ますます歪んで憂鬱そうに見える顔は、個展会場で見たあのイラストレーターと同じだった。