輝きのなかで
人が行き交う僅かな隙間から、夕日のような色をした屋根の庇が覗いた。近づくと、押し競饅頭をしているようなヨーヨーの派手な色使いが飛び込んできて、大志の目を一層刺激した。
屋台の店先に、薄紫の地に真っ赤な文字で(あんず)と抜かれたのぼり旗が立っていてその(ず)の文字のところに知った顔があった。
金子さんだった。目が合うと、お互いに微笑み軽く会釈した。
「ふみちゃんは、一緒じゃないの」
大志が近づくのを待って、金子さんが口を開いた。
「ええ、途中で友達に会って、そっちに行きました。」
杏飴を頬張った小学校低学年と思われる子供達が不思議そうな目で大志を仰ぎ見た。
「教室の生徒達なのよ」
子供達を囲うように投げ出された両腕の軌跡が、残像となった。
「この間はありがとうございました」
「いいえ、私も大志ちゃんに会えてよかったわ」
金子さんが、肩に掛けた大きなバックを探り始めた。
「これ、大志ちゃんが持っていたほうがいいと思って」
手渡されたスライドケースを開けると、母の絵が丁寧に納められていた。
「今日が、この絵、お祭りね」
そう呟いた金子さんの肩越しに、改めて大志は境内を一望した。
絵のなかに描き加えられていく自分を漠然と意識した。
「ふみちゃんは、残念だったわね。様子はどう?」
「今は、子犬を飼うことに夢中みたいで」
「そう、そんなものね」
金子さんを取り巻いていた子供達が愚図り始めていた。
そのうちの一人が、飴を持った反対側の手で金子さんの腕を掴み、ヨーヨー釣りの屋台へ引っ張ると、皆がそうし始めた。
「じゃあ、また後でね」
「はい。絵、ありがとうございました」
金子さん達をその場で見送る大志のなかで(そんなものね)という軽い響きの言葉が反復していた。
石畳に沿って等間隔に吊るされている提灯に明かりが燈った。
人波が一本の筋のように浮かび上がったその先に、ウコン桜の木がそびえ立っていた。
大志は、雑踏を離れ、影のように黒く茂った上部の枝葉を静かに揺らすウコン桜の木を何か懐かしい心持を抱え、目指して行った。
本殿から離れ、参道からも逸れているこの辺りにくると、先程まで身を置いていた空間が、異次元の空間のように感じられた。
明かりに照らし出され、鮮やかな色彩を放つその異空間を正面に見据え、ウコン桜の樹皮に背中で触れた。
体重をかけそのまま寄り掛かった。
一瞬、これから考えるべきこと、考えなくてはならないことに、猶予を与える為に、ゴツゴツとした感触を確かめた。
(この光景、目の前に広がるこの絵は、一体何なのか?)
核心をつく自問を、答えが出ないのをわかっていながら、大志は何度か繰り返した。
細めた目に、色彩が混ざり始めた。
その動きを、後押しするような強い海からの風を感じた。
(また、始まるのか)
不規則な運動が、始点も終点も中心もないカンバスを創り上げていくと、目の前に描き出されそうな何かに不安になり目を閉じた。
喧騒に潜んでいた波の音が大きくなった。
瞼の裏に、刷新されていく砂浜の遙か向こうにある天女の岩が映しだされた。
(どうしたんだ)
大志は目を開けた。
現れた繰り返されるうねりが、渦巻く色の波となって、その天女の岩に襲い掛かり、やがて砕け散るように姿を消した。
後に残ったのは、混沌とした色の波だけだった。
波の音が弱まり、境内のざわめきと背に感じる幹の感触が甦ってきた。
カンバスにも絵が戻ってきた。
縁取られていく輪郭のなかで、小さな像が踊った。
その像を捉えながら大きく深呼吸をした。
「楽しいお祭りの絵なんだな」
何の脈絡も無い言葉が口をついた。
その言葉を愛おしく思った。
大志は、その小さな像に向かってウコン桜の木を後にした。
身体の奥に刻み込まれていた、暗号化されたものから、解放されたような軽い足取りだった。その一歩一歩に、遙か昔の記憶にあるような、突き上げてくる力を感じていた。
「お兄ちゃん、何処行っていたの。探したわよ」
近づいてくる、大志を見つけたふみちゃんが、アイスを片手に、屋台と屋台の間から飛んできた。
「さっき、金子さんに会って、これもらったんだ」
大志は、肩に掛けたスライドケースを指で弾いた。
「お母さんの絵?」
「うん、そうだよ」
一瞬、瞳をくりっとさせたふみちゃんが溶けかけのアイスに口をつけた。
「皆は、どうしたの?」
「あっち、お神輿のところ」
振り返ったふみちゃんに続いて、大志も本殿横のテントを見やった。
運び出された神輿の周りを法被姿の男達が慌しく動き回っていた。
「そろそろ始まりそうだね」
「そうよ、だから探していたのよ」
ふみちゃんに導かれ、人が少ない屋台の裏側を通って、投光器で明るく照らし出されたテントの前までくると、丁度源さんが、久美ちゃんに神輿の乗り方を教えているところであった。
「そんなんじゃ、だめ。落ちるよ。そこに足をかけて」
神輿の前面部に取り付けられている小さな台に座った久美ちゃんに捲くし立てる源さんにも、周りから慌しそうな声が掛っていた。
疾呼し合う声が、その場に緊張をもたらしこれからが祭りの本番なのだという雰囲気を増幅させていた。
「今、何時?」
ふみちゃんが、不意に大志の腕時計を覗き込んだ。
「あと十五分ぐらいかな。始まるの」
「そういえば、お兄ちゃんお参りした?」
「まだだけど」
「じゃあ、しようよ」
熱気で眩暈がしそうななかをすり抜け、本殿の石段を上がって、二人は賽銭箱の前に出た。
小銭を握ったふみちゃんが、ちらっと視線を戻した先には、友達や大勢の見物人に囲まれた久美ちゃんの姿があった。
勢いよく鈴が鳴り響き、ふみちゃんがポンポンと拍手を打ち、手を合わせた。その横で大志も小銭を投げ入れた。
「何、お願いしたの?」
「来年は、お神輿に乗りたいって」
「子犬は」
「あっ、それも付け足しておかなきゃ」
ふみちゃんは、慌ててもう一度鈴の音を響かせ、手を合わせた。
「色々、お願いすることあるね」
「そうよ。本当はまだまだ沢山あるの」
(どんなこと?)そう言い掛けた声がさらに大きく鳴った鈴の音に掻き消された。
「お兄ちゃんは、何をお願いしたの?」
石段を先に下りたふみちゃんが見上げた。
「内緒」
「なんでー」
膨らんだ赤味を帯びた頬っぺたに笑いかけその背後にある無秩序に広がる色彩を俯瞰した。
一瞬、コード化される予感があった。
大志は、再びふみちゃんの頬っぺたに目をやった。
(とにかく動こう。繰り返す波のように)
先程、手を合わせて心のなかで呟いたことをしっかりと心に刻もうとした。
「お神輿だー」
ふみちゃんが、叫んだ。
スピーカーから流れる源さんの声が、神輿が始まることを告げていた。
威勢のいい掛け声が、須臾その放送を飲み込み、神輿が担がれた。
「久美ちゃん」
人波に紛れたふみちゃんが、手を振った。
放たれる掛け声に、勢いよく上下する神輿の上で久美ちゃんは、強張った表情で正面を見据えたままだった。
大勢の見物人を伴って、神輿が本殿前を横切って、石畳の上を移動し始めた。
小さな背中を見え隠れさせ、人込みのなかを突っ切ったふみちゃんが、神輿のすぐ後ろで飛び上がった。
「久美ちゃん、気付いてくれないなー」