雑草の詩 3
彼は、自分の過ちや苦しみを彼女の前にサラケ出すことで、自分を愛し自分の明日を願うことが出来た。それは、ただ懺悔することだけで自分の過去を清算できるといった発想のものではなかった。過去は消えることはない。動かし難いものであり、その過去が彼を苦しめることも往々だった。しかし顔を赤らめる程の過去よりも、もっと大きな明日という名の未来が、言い換えれば、生きてゆくことの怒哀だけでなく喜楽も交えた喜怒哀楽が、彼の前に示されたのだった。
もちろん肉体としての彼女は、四六時中彼の目の前を歩き回っていたのだから、その身体に対する欲望の為に眠れぬ夜を過ごすこともあった。夜の重たさは心に蓋をしてその中を欲望は縦横無尽に我が物顔で駆けずり回り、どうにも自分では手のつけられないこともあった。けれど、その度に幸恵の微笑みは鮮やかに蘇り、心の中に巣喰う悪魔をなだめてくれるのだった。
幸恵も真悟を愛していた。いや、彼女は人間を愛していた。その人間の弱さを理解することが出来た。
彼女自身、いつでも希望と絶望の淵に腰掛けているような気がしている。自分の障害を恨みもしたし、貧困の中で喘ぎながら、心ない人の仕打ちに涙しながら、己の運命を呪うことがない訳ではなかった。街を行き交う同世代の若い娘達がキラビヤカに着飾って楽しそうにおしゃべりしているのを見、自分の服のみすぼらしさに気付き心を痛ませたこともあった。
どんなに辛い時にもその辛さを打ち明けて話す手段もなく、またそんな人さえ持たない彼女はいつも孤独だった。そして人知れず涙を落とすことだけが、彼女に残された唯一の逃げ路だった。しかし、僅かばかりの蔵書の中の同じような境遇を嘗めた人々が、彼女の心の支えとなった。一度の涙が二度になり三度になり、数知れぬ涙の跡が頬に刻まれるにつれて、彼女の内には諦めが生まれてきた。それは投げやりや開き直りではなかった。聖諦とでも呼べるだろうか‥‥‥。
彼女は孤独を愛するように努めた。明日を夢見て今日を懸命に生きる、それだけは全ての人に共通している目的だった。より良く生きよう、自分を高める為に生活しよう、彼女はそう努めた。他人のものではない自分の為の生活を生きるということ、己の正しい心の声に従い毎日を送るという考えが彼女の心の中に起こり、生き延びることの悲哀と喜びとはごっちゃに交わりながらも、彼女の、人生という長い道程のあちこちに灯をともしていったのだった。
彼女の微笑みはそこから生まれていた。彼の女自身が覗いた地獄と同様の生き地獄に片足ばかりか両足までも取られている人達の心の叫びが、彼女には聞こえるような気がした。そして、地獄にいる人もいない人も、彼女は、人間は愛することができるものだと思えるようになっていった。
(皆弱い人ばかり、寂しさを何処かに抱いた人ばかり。だから、そんな人達の心ない行為も許すことが出来る。だって、みんな短い人生の中で手足をばたつかせながら、必死に生きてゆこうとしているんですもの)
そんな幸恵の暖かい微笑みが、真悟の心を少しづつ溶かし、変えていった。
3
時間はゆるやかに、しかし正確に流れ、三月が、真悟の受験した大学の合格発表の日が訪れた。
悲喜こもごもの喧噪に取り囲まれて、真悟はゆっくりと祈るような気持ちで掲示板の番号を追った。その数字の列は、彼の番号を飛び越えて続いていた。受験票を手にしたまま表情さえ崩さず、掲示板を見詰めていた真悟だった。
「駄目だったな、やっぱり‥‥‥。」小声でそう呟くと、彼ははしゃいでいる勝者達に背を向け歩き出した。顔を上げる気持ちにもなれない。出来ることなら、誰とも顔を合わさずこのままひとりっきりになりたかった。
「畜生、もっと、もっと真面目にやっとけばなあ。」
ベッドの上に大の字になり、天井の一点を見詰めている真悟の脳裏を、様々な後悔が駆け抜け、堪え切れぬその思いが独り言となった。呪うべき人物は自分自身を除いて誰一人いなかった。
「畜生、畜生‥‥‥。」堅く握りしめた拳で布団を叩く真悟の頬を涙が伝った。
(努力もしないで、通る筈なんかなかったんだよ。やることは一杯あったのに‥‥‥。今更後悔したところで手後れさ)心に荒れ狂う竜巻は、彼自身に向かって吠えかかった。腹立ちも悔しさも全ては彼自身に向かっていた。
真悟の前には幸恵の微笑みがあった。その微笑みに、かすかな微笑みで応えて、
『駄目だったよ。
当然だったかも知れないけどね。』と記し、それを幸恵に手渡した。しかし、幸恵は何も答えずに真悟の瞳を見詰めるだけだった。
「でも、来年があるから‥‥‥、今度こそはがんばろうと思うんだ。」
その言葉に小さく頷く幸恵の顔に微笑みは消えていた。けれどその瞳は真悟に向けられ、優しさを込めて彼の瞳と結ばれている。しばらくの沈黙は、二人の間を行き来した。
『真悟さんは何科のお医者様になるの?』
『そうだな、産婦人科かな』
『どうして?』
「どうしてって。」そういうと真悟は照れ隠しにニヤリと笑った。
『どうせ、いやらしい目的なんでしょう?
でも、今度こそ頑張らなくっちゃあね。』
幸恵の暖かい眼差しに包まれて、真悟は真顔で頷いた。
『僕はね、君の耳になりたいんだ。
口になりたいんだ』
幸恵は、真悟の真剣な面持ちをじっと見詰めていた。しばらくして、おもむろにノートを手にすると、
『私は幸せだと思うわ。
だって、外に出ることさえ出来ない人は大勢いるわ。
目の見えない人だって一杯いる。
私は、いつだって好きな時に、好きな風景を見に行ける。
本だって読めるし‥‥‥。
耳も聞こえないし、お話もできないわ。
だけど、みんな良いところも悪いところも持っていると思うの。
病気で苦しむ人もいれば、色んな悩みを持っている人もいる筈だわ。
自分の苦しみや悩みばかり考えていても、仕方のないことでしょう。
泣いている時ばかりが私じゃないわ。
笑っている時や、
怒っている時ばかりでもない。
みんなひとつにして、
ひとりの人間だと思うの。
良いことも
悪いことも
一杯、一杯あったほうがいいの。
楽しいことばかりでも、苦しいことばかりでも、
きっとどちらか一方だけだったら、
生きるってつまらないことだと思うわ』
ノートの文字が次第にかすんでゆく。幸恵の瞳に宿る微笑みも、かすんで真悟には見えた。自分の同情から出た言葉に抗することもなく、そんな自分の同情など入り込む余地さえない程の微笑みにたたえられた幸恵の顔は、同時に、生きて行くことの素晴らしさを真悟に訴えている。
真悟は恥ずかしく思った。だが、それにも増して、こんな素敵な人と歩んでいける人生がこの上もなくいとおしく、楽しく思え、幸恵の強さの前に平伏して、その気持ちのほんの僅かでも自分のものにできたらどんなに良いことだろう、そう思ったのだった。
4
トントン。真悟の部屋の扉を叩く人があった。
「ハイ!」そう叫んで真悟は扉へ飛んでいった。
「なんだ、父さんか。」