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雑草の詩 3

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  『雑草(ざっそう)の詩(うた)』 3


       第 二 章

         1

 何を手にする事に依って幸福といえるのか、その答えは出ない。違う素質を持つ人間が違う環境に生まれ育てられ、そしてそいつらに囲まれながら生きてゆかねばならないのだから。
 しかし例え何を手にしても、その喜びはまた次の欲望を誘い次々に欲望となり、そしてそれは果てしなく続けられる。詰まるところ幸福を味わう為のスパイスとしての欲望が、人を進化させるのだろう。
 けれど人の心にある哀しみに欲望の翼はない。他人を自分と同等だと思って愛し、生まれ落ちて生きて行かねばならぬ苦悩を抱えた人として愛する、そんな哀しみに欲望の住処はない。
 およそ人は結論を語りたがる。もちろん表に現れるのも後に残るのも結論だけだから、それも仕方ないのかも知れない。けれど、そこでもう少しだけ考えてみればいい。生まれた時から既に聖人君子として生まれる馬鹿もないだろうし、もしたとえそういった人がいたとしたら、きっとその人は宇宙人か何かと思って差し支えない。なぜなら、人は自分が哀しんだ分だけの哀しみしか理解できず、苦しむ人を見詰めその哀しみに心を痛めた人だけが、その哀しみを心に刻めるし、その繰り返しが人を聖とするのだから。
 人の哀しみに心を痛め、答えを求めずに愛するその人の何処に欲望が住めるだろうか、それが偽善でない限り、何処にも住めはしない。

 幸恵の心にもそんな哀しみがあった。生まれながらにして耳も聞こえず口を聞くこともできず、山本幸恵、そう名付けてくれた父母、そして肉親の顔さえ知らずに、児童ホームや孤児院を転々としながら成長してきた幸恵にとって、生きるということが素敵なことだった、生きているというだけで素敵なことだった。だから、持っていることが当り前の人達と持たないという十字架を背負わなければならない人達、彼女を取り巻く人間達の感情、偏見や暴力や時折の優しさ、それらにもまれながらも彼女は常に明るく、どんなに冷たくまた残酷な行為にも彼女は微笑みで答え続けた。その姿はまさに、天性の妖精そのものだった。
 生命の誕生と共に背負わされた障害に背を向けることなく、普通の人の数倍の努力で幸恵は人並みの学力を備えていたし、手話を使うこともできた。そして、その聡明さと微笑みと、人生に対する真摯な態度だけは常に見失うことはなかったのである。

 真悟と幸恵の関係は一変していた。あの夜の出来事によってようやく己の心の窓を開いた真悟は下界の空気を腹一杯吸い始めた。幸恵の明るさと微笑みは真悟にとって光とも空気ともなった、いや宇宙そのものになっていった。彼女の存在こそが心の支えとなり、初めて人間らしく生きる望みを持ち生きる喜びを知り始めた真悟だった。
 長く厳しい冬の間中、目を閉じ息を殺して己の穴蔵に潜んでいた動物達が、暖かな春の日差しが雪を溶かしあたり一面に花を咲かせる頃、すっかり春の用意が出来ましたという声に誘われて何やらウキウキと栖を這い出してくる気分にも似たように、真悟にも春が訪れた様子だった。今まで、悩んだり苦しんだりしてきたことがまるで嘘のように、晴れやかな気分で己の人生や毎日の暮しを思えるようになっていた。それも、幸恵の存在があればこそではあったが‥‥‥。
 これまでの敵意にも似た感情は流れ去り、真悟の心には憧れが訪れていた。ほのかな愛情と連れ立って。真悟にとって幸恵は女神そのものだった。傍らにいてくれるだけで良かったし、自分に向けられるその微笑みだけで満足だった。まだ完全な独り立ちとまでは行かなくとも真悟は懸命に勉強に取組始めていた。一生懸命勉強して、彼女の耳を治してあげたい話せるようにしてあげたい、それが動機だった。

         2

 駆け抜けた車の残した突風は幸恵の髪を乱していった。片手で乱れた髪を掻き揚げ再び信号に視線を戻した時、横断歩道の反対側で、パクパクと大きく口を開けて手を振り続けている真悟の姿が目に飛び込んできた。幸恵も手を振り返す。
「おつかい?」青になり、ニコニコと嬉しそうに駆け寄ってきた真悟の問いに、微笑みながら幸恵は頷いた。
「もう帰るんだろう。じゃ、一緒に帰ろう。
 僕が持ったげるよ。」
 買物カゴを真中に、二人は並んで歩き出した。

 「お待たせいたしました。ハイ、お嬢さん。」
 公園のベンチに幸恵を残したまま何処かへ姿を消してしまった真悟だったが、走って戻るなりおどけて幸恵に白い紙袋を手渡した。
「コレ、ナアニ?」
「おいもさんです。」そう答えて焼き芋を取り出した真悟は、フウフウと吹き、かじりついた。
「アチッ、アチッ。
 食べなよ、暖かくなるよ、嫌いかい?」
 じっと真悟を見詰めていた幸恵は、ウウンと首を振ると皮を取り始めた。

 『僕は冬が一番好きなんだ。』真悟は二人用のノートにそう記して幸恵に渡した。しかし幸恵はノートを手にして微笑んだだけで何も書かずに真悟に戻す。
『君は、いつが一番好きなの?春、夏、秋、冬?』ひとつひとつの季節を記す度に、幸恵の顔を覗き込む真悟、そのいずれにも答えず彼女はただ『一年中』とだけ記した。
「なぜ?」と真悟は問い返したけれど、幸恵はただ微笑むばかりだった。
『なぜなの』そう書いたまま、じっと幸恵の微笑みに真悟は見入った。真悟の手からノートと鉛筆を取って、幸恵は書き始めた。
『春には、たくさんの花が咲くわ
 夏になれば虫さん達も元気一杯
 春には花や木がとっても奇麗にお化粧するし
 冬になれば、雪が大地を真っ白に包んでくれる
 いつだって、楽しいことは一杯あるんですもの』
「じゃあ、今も楽しい?」
 うんと、小さく頷いた幸恵だった。

 陽のカゲッた場所が段々段々広がってゆく。早い冬の夕暮れはすぐそこまで来ていた。「寒くはないかい?」幸恵は首を横に振ったが、真悟が自分のしていたマフラーを首に回そうとすることに別段の反対はしなかった。
「もう帰ろう。」黙って頷く幸恵より先に、真悟は歩き始めた。
 十二月の風は肌を突き刺すように冷たくなってゆく。日暮れの到来と共に余計寒さは増していた。けれど一本のマフラーの端と端に結ばれて歩いて行く二人は、それぞれの体温がマフラーを通じて互いの心を暖めているかのようにも、思い合う心が抱きあい、風さえ吹き込む余地のないようにも見えた。交し合う言葉さえ持たぬ二人は、暮れ急ぐ町の雑踏の中へと消えていった。

 何処へ進んでいけばいいのか、何をすればいいのか、生きているということの実感さえ掴めずにいた真悟の前に現れた幸恵、彼女の生き様は真悟にとって大きな衝撃だった。ジェラシーから生まれた憎悪・暴力、しかしそれに屈することなく微笑む幸恵の存在は、やがて真悟に大いなる安息を与えるようになっていった。
 心の隙間の全てに組み込まれた幸恵を愛し始めていることに真悟も気付いていたけれど恋愛という感情よりも、そこでは尊敬とか崇拝という感情のほうが大きく支配していた。抱え切れぬ程に膨張した行き場を持たないプライドや疎外感、真悟の心を閉ざしていたそれらの苦悩は、幸恵を前にして粉々に砕けていった。
作品名:雑草の詩 3 作家名:こあみ