雑草の詩 3
「なんだはないだろう。幸恵さんじゃなくて、悪かったな。」恨めしそうな真悟の顔を見やりながら、父は笑ってからかった。
「ベッ、別にそういう訳じゃないよ。
それより、どうしたの、何か用?」頬を真赤にした真悟は急いで話題を変えた。
「いや、大した用事じゃないんだ。
手が空いてたら、どうだ、私に付き合わないか。」
「うん、いいよ。何処か行くの?
そう、じゃあ急いで支度するから、下で待ってて。すぐ降りてゆくよ。」
父はドアを閉め階下へと下っていった。
「いらっしゃい!」
真悟と父が暖簾をくぐると、威勢の良い声が彼らを迎えた。
「おや、先生でしたか。今日は息子さんもご一緒ですか、羨ましいですねぇ。
おい、先生方を奥へお通ししな。さあ、先生、どうぞ奥の方へ。」
板前姿のご主人はニコリと微笑んで、彼らに奥の座敷を進めた。二人が席に着くと、おかみさんがおしぼりを持って現れた。
「いらっしゃいませ。アラ、今日はまた息子さん連れで。よろしいですね。
あっ、始めまして。お父様には、いつもお世話になってますのよ。
まあ、先生、とってもハンサムで立派な息子さんですこと。お楽しみですね。」
明るい色の着物がよく似合う、丸顔で愛嬌たっぷりのおかみさんは、おしぼりを手渡しながら、
「先生はいつものでよろしいですよね。息子さんは、先生、息子さんは何がよろしいかしら?」
「真悟、お前は何にする。酒飲みの稽古ぐらいやってるのだろう。」
「僕はビールでいいよ、ビール下さい。」
「じゃ、ビールと、他は適当にお願いします。」
「ハイ、かしこまりました。それじゃ、どうぞごゆっくり。」おかみさんはカウンターの方へと消えていった。
「真悟、残念だったな。ところで、どうする積もりだ。まだ頑張ってみるか、それとも違う生き方をみつけるか。」
酌み交した杯を手にしたまま、父はじっと真悟の顔を見詰めていた。
「うん、もう一度やり直してみようと思ってるんだ。今度こそ、頑張れそうな気がするよ。」と、真悟は言葉少なに答えた。
「そうか、じゃ、やるだけやってみなさい。」父は満足げに杯の酒を飲み干した。
しばらくの間、黙ったまま酒を飲み続けていた二人だったが、突然真悟が笑い出し、笑いながら語り始めた。
「父さん、ありがとう。」
「どうしたんだ、急に。」父もつられて笑い出す。真悟は続けた。
「いや、面白いね。馬鹿みたいだよ。やろうと思えば何だって出来るのにね、こんなに幸せなのに‥‥‥。
何考えてたんだろうね、今まで。恥ずかしいよ。幸恵さん見てたら、恥ずかしくってね、何でも出来るのにね‥‥‥。」
真悟は涙が落ちそうになるのを、上を向いたり指を当てたりして必死に堪えながら笑って語り続けた。
「僕はね、幸恵さんの力になろうと思ってた。そしてそんなことを口走ったんだ。
でも、彼女は強いんだね、とっても強いよ。何だか恥ずかしいね、本当に。
僕ね、馬鹿な人間だったけど、少し、ほんの少しだけ判ってきたような気がするんだ。 何かさ、今、とっても中途半端でしょう。何でもやれるのに、‥‥‥何もやってないし、ねっ、父さん。
僕、間違ってるかも知れないけど、こう思うんだ。兎に角、やってみるよ。精一杯自分の人生だけ見詰めながら頑張ってみる。今、人のことなんか考えている暇はないんだよね。
自分の人生掴んでみるよ。やってみる。」ビールのグラスをしっかりと握りしめ、壁の一点を見詰めながら真悟は語り続ける。父は、微笑みを浮かべて息子の話にじっと耳を傾けていた。
「それからでも遅くないよね。僕が、僕がちゃんと人間って名乗る資格が出来たら、その時初めて、幸恵さんと歩けると思うの。そしたら、彼女の人生も手に入れられるような気がしてるんだ。」締め括りの言葉に、口に出してから築いたのか、ちょっと照れた真悟だった。
真悟の言葉に耳を貸していた父は、優しく彼に微笑みながら、
「そうだな、父さんも賛成だな。」と言った。そしてしばらく間をおいて、
「真悟、人間って奴は生まれた時は白紙なんだろうな。何も書かれていない純白の上に、色んなものが記されていくんだ。良いことを学べば良くもなるだろうし、悪いことを覚えれば悪くもなる。今まで父さん達が教えられずにいたことを、お前は、幸恵さんに教わったんだ。私も教えられたような気がするよ。
お前が今、自分は幸せだと言ったろう。父さんもその言葉は好きだ。誰もが幸せを求めて生きている、でも幸福っていうのはその人の心の中にあるんだろうな、自分が幸せだって思えることが一番の幸せなんだ。
自分を客観的に見て、一歩づつ苦しみながらでも良いことを貯えていかなけりゃいけない。そしたら、幸恵さんと対等に生きることだって出来ると思うな。
しかし、幸恵さんはとても素敵な人間だぞ。
彼女に見合うだけの人間になれるか?」
笑ってそう問いかける父に、真悟ははにかみながら、
「分からないよ、でも、出来ることをやるしかないって思うんだ。」
「そうだな、頑張ってもらわんとな。
しかし、お前も少しは成長したようだな。これも幸恵さんのお陰だな。
まあ話はこれ位にして、飲め。今日は父さんも飲むぞ。さあ!」
父と息子は幾度も杯を交しながら、語り、飲み、笑い合った。
「おーい、母さん!
わたしだ、最愛の夫と、最悪の息子だ。
開けてくれ!開けてくれ!」
父と息子は肩を組み、夜の静寂を突き破らんばかりの大声で、歌ったり怒鳴ったりしながら、我が家のドアを盛んに叩き続けた。
「いったい、今何時だと思ってるんですか!ご近所迷惑でしょう。さあ、早く入って下さい。
何ですか二人そろって、まるで子供みたいに。さあ、静に、静かにして下さい!」
母は盛んに二人の子供を叱ってみるが、一向に効果は上がらない。
「真悟、良く見ておくんだぞ。これが大恋愛のなれの果てだ。アー、昔は良かった。
母さん、奇麗だったよ、昔は。ハハハハハ‥‥‥。」
「あなたったら、」
父は真悟の肩にもたれるようにして、満足そうに笑いながら彼の奥さんをからかい続けた。
ーつづくー