周波数研究の果てに
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
研究発表披露パーティ
「時代の流れというのは想像以上に早いもので、私の恩師であった勝沼博士がお亡くなりになって五年が経とうとしています。波乱万丈なこの五年間でしたが、川北さんにとっても、本当に特別な五年間であったと思います。そんなご苦労を乗り越えて、今回の学術的発見をなし得たことは、何よりもお亡くなりになった勝沼博士へのご供養になるのではないかと思います。私はそれを思うと涙を禁じ得ないのですが、ここにお集まりの皆様も、さぞや同じ気持ちなのではなかろうかと存じます。本日のような晴れやかな日ではありますが、皆さんも勝沼博士を偲ぶことも忘れないでいただきたいと存じております。では、本日の主人公でいらっしゃる川北助教授に、ご挨拶をお願いすることにいたしましょう」
と、司会であり、かつての勝沼博士の顧問弁護士をやっていた佐久間氏が、満場からの拍手を浴びて、壇上を後にすると、その後に本日の主人公でもあり、研究発表により世間から認められた川北助教授が入れ替わりに壇上に向かった。
そこには今の佐久間弁護士に対しての拍手に劣らぬ、いや、そんな比でもないくらいの引く種喝さいを浴びた川北助教授が、壇上に上がった。スーツの胸に飾られた花が微妙に稼に揺れているかのように見えたのは、気のせいであっただろうか。壇上に上がった川北五郎助教授は軽く頭を下げて、一歩前に進み出ると、マイクの一を手で調整しながら、まわりを見つめ、淡々と話し始めた。
「本日は、私のような者のために、このような催しを開いていただき、感謝いたします。実際には、このような場所に私のような者がいてもいいのかと、絶えず自問自答を繰り返しておりますが、私の科学への真摯な気持ちにウソがないということをまず、ご来場の皆様に信じていただきたいと考えております」
と言ったところで、満場の拍手は最高潮に達していた。
「思えば、私がこの研究を発見し、実際に発表にまでこぎつけることになったそもそもは、私が大学生として教授のゼミに参加するようになった十五年前から始まっておりました。その頃の教授は、私の発見し、理論をまとめた研究をさらに漠然と、そして広い発想で感じておられました。その内容は、学生である我々には難しかったのですが、漠然としている分、大いなる故を感じたのは間違いのないことです。実際に私などは、他に誰も思いつかないような発想であり、博士の尋常ではない発想力に感嘆したものでしたが、博士は思いもしていないことをおっしゃっていました。それは、『私のこの発想は、奇抜でとんでもないバカげた話に思えますが、だからこそ、皆一度はどこかで考えるものだと思うのです。それは研究者に限らず、一般の人も同じなのではないかと思っています』という話でした。その話を訊いて私は感動したのです。博士にこの研究を完成してほしかったし、私もできるだけ協力し、完成させたかった。その思いがいろいろあった中での、今回のこのような私の成果ということでなし得ることが、一部ではありますが、できたのではないかとおもっております。私の研究は、教授の漠然とした発想を始めて不可能だと思われていたたくさんの人を、可能性の世界の方に引き込むことのできた成果なのだと思っています。きっと博士も喜んでくれていると思っております」
と、川北助教授はそう言いながら、笑顔を見せていた。
「川北先生の笑顔、本当に久しぶりに見た気がするな」
と、会場への章や胃客の一人が呟くように言った。
「ええ、それだけご苦労もおありだったということなんでしょうね」
と、その横にいた一人の女性が、相槌を打った。
今回の研究に際しては、川北助教授の演説にあるように、勝沼博士にとっては、まさに人生を掛けた研究でもあった。
もちろん、他の研究を疎かにするような博士ではなかったので、日頃の研究を生業にしながら、一貫しての夢の研究は、それ以外の時間を、寝食の時間を削ってまで研究するほどであったのだが、あまりにも最初が漠然とした考えであったので、それ以上深く掘り下げる術をなかなか持つことはできなかった。
どうしても、最初に漠然とした大きなテーマを掲げてしまうと、まわりから見ていた支店を中に掘り下げて見ようとするならば、できることというと、何か一つ、風穴を開けるような一つの発見がなければ難しいだろう。博士の立場からはかなり難しく、どうすればいいかを考えた挙句に考え付いたのが、
「研究チームを作り、それを法人化に結び付ける」
ということだった。
変わり者が多く、偏屈な人が多いと言われる研究者の中で、勝沼博士の変わり者ぶりは、まさにその通りであった。そのため、発想は思いついても具体的なところに向かうと、なかなか先に進まなくなってしまう。そういう意味で、研究チームなどという発想はおろか、法人化などという発想は、誰も思いつくはずのことではないだろう。
だが、教授には、
「自分の発想は偏ってしまっていて、自分だけの思いで突っ走ってしまうと、研究が進まないことで、
「俺の研究はこのままなら、確実に頓挫する』」
ということが分かっていたのだ。
教授は自分が堅物であることも分かっている。しかし、自分一人では限界があるということも分かっていた。その思いが教授をジレンマに陥れ、ここから先のやり方が、成功者と失敗者に別れるということも分かっていた。
本当は研究者に一番必要なものであり、なかなか自分で認めることのできない場合が多い、
「先見の明」
と博士は兼ね備えていたと言ってもいいだろう。
それが、
「勝沼物理学研究所」
の設立であり、博士の死後いまだ名前に、
「勝沼」
の文字を残したまま運営を続けている、博士の遺産ともいうべき法人団体なのだ。
今回の主役である川北助教授も、この研究所の研究員であり、今ではなくてはならない重要な人物になっていた。
その彼が今回大きな発表をすることができたのは、
「博士があの世から、川北さんを真剣に応援してくれていたからなのかも知れないな」
と口々に言われていた。
川北が今回の受賞で何と言っても研究が成功したのは、彼がすべてを懺悔し、博士の意志を見事に継ぐことができたからだと誰もが思っていた。
そのことについては、一番の理解者であるのが佐久間弁護士だと思ったからこそ、今回の司会を頼んだのではないかと誰もが思っていた。
そんな回想をしながら、壇上の川北氏のスピーチは続く。
研究発表披露パーティ
「時代の流れというのは想像以上に早いもので、私の恩師であった勝沼博士がお亡くなりになって五年が経とうとしています。波乱万丈なこの五年間でしたが、川北さんにとっても、本当に特別な五年間であったと思います。そんなご苦労を乗り越えて、今回の学術的発見をなし得たことは、何よりもお亡くなりになった勝沼博士へのご供養になるのではないかと思います。私はそれを思うと涙を禁じ得ないのですが、ここにお集まりの皆様も、さぞや同じ気持ちなのではなかろうかと存じます。本日のような晴れやかな日ではありますが、皆さんも勝沼博士を偲ぶことも忘れないでいただきたいと存じております。では、本日の主人公でいらっしゃる川北助教授に、ご挨拶をお願いすることにいたしましょう」
と、司会であり、かつての勝沼博士の顧問弁護士をやっていた佐久間氏が、満場からの拍手を浴びて、壇上を後にすると、その後に本日の主人公でもあり、研究発表により世間から認められた川北助教授が入れ替わりに壇上に向かった。
そこには今の佐久間弁護士に対しての拍手に劣らぬ、いや、そんな比でもないくらいの引く種喝さいを浴びた川北助教授が、壇上に上がった。スーツの胸に飾られた花が微妙に稼に揺れているかのように見えたのは、気のせいであっただろうか。壇上に上がった川北五郎助教授は軽く頭を下げて、一歩前に進み出ると、マイクの一を手で調整しながら、まわりを見つめ、淡々と話し始めた。
「本日は、私のような者のために、このような催しを開いていただき、感謝いたします。実際には、このような場所に私のような者がいてもいいのかと、絶えず自問自答を繰り返しておりますが、私の科学への真摯な気持ちにウソがないということをまず、ご来場の皆様に信じていただきたいと考えております」
と言ったところで、満場の拍手は最高潮に達していた。
「思えば、私がこの研究を発見し、実際に発表にまでこぎつけることになったそもそもは、私が大学生として教授のゼミに参加するようになった十五年前から始まっておりました。その頃の教授は、私の発見し、理論をまとめた研究をさらに漠然と、そして広い発想で感じておられました。その内容は、学生である我々には難しかったのですが、漠然としている分、大いなる故を感じたのは間違いのないことです。実際に私などは、他に誰も思いつかないような発想であり、博士の尋常ではない発想力に感嘆したものでしたが、博士は思いもしていないことをおっしゃっていました。それは、『私のこの発想は、奇抜でとんでもないバカげた話に思えますが、だからこそ、皆一度はどこかで考えるものだと思うのです。それは研究者に限らず、一般の人も同じなのではないかと思っています』という話でした。その話を訊いて私は感動したのです。博士にこの研究を完成してほしかったし、私もできるだけ協力し、完成させたかった。その思いがいろいろあった中での、今回のこのような私の成果ということでなし得ることが、一部ではありますが、できたのではないかとおもっております。私の研究は、教授の漠然とした発想を始めて不可能だと思われていたたくさんの人を、可能性の世界の方に引き込むことのできた成果なのだと思っています。きっと博士も喜んでくれていると思っております」
と、川北助教授はそう言いながら、笑顔を見せていた。
「川北先生の笑顔、本当に久しぶりに見た気がするな」
と、会場への章や胃客の一人が呟くように言った。
「ええ、それだけご苦労もおありだったということなんでしょうね」
と、その横にいた一人の女性が、相槌を打った。
今回の研究に際しては、川北助教授の演説にあるように、勝沼博士にとっては、まさに人生を掛けた研究でもあった。
もちろん、他の研究を疎かにするような博士ではなかったので、日頃の研究を生業にしながら、一貫しての夢の研究は、それ以外の時間を、寝食の時間を削ってまで研究するほどであったのだが、あまりにも最初が漠然とした考えであったので、それ以上深く掘り下げる術をなかなか持つことはできなかった。
どうしても、最初に漠然とした大きなテーマを掲げてしまうと、まわりから見ていた支店を中に掘り下げて見ようとするならば、できることというと、何か一つ、風穴を開けるような一つの発見がなければ難しいだろう。博士の立場からはかなり難しく、どうすればいいかを考えた挙句に考え付いたのが、
「研究チームを作り、それを法人化に結び付ける」
ということだった。
変わり者が多く、偏屈な人が多いと言われる研究者の中で、勝沼博士の変わり者ぶりは、まさにその通りであった。そのため、発想は思いついても具体的なところに向かうと、なかなか先に進まなくなってしまう。そういう意味で、研究チームなどという発想はおろか、法人化などという発想は、誰も思いつくはずのことではないだろう。
だが、教授には、
「自分の発想は偏ってしまっていて、自分だけの思いで突っ走ってしまうと、研究が進まないことで、
「俺の研究はこのままなら、確実に頓挫する』」
ということが分かっていたのだ。
教授は自分が堅物であることも分かっている。しかし、自分一人では限界があるということも分かっていた。その思いが教授をジレンマに陥れ、ここから先のやり方が、成功者と失敗者に別れるということも分かっていた。
本当は研究者に一番必要なものであり、なかなか自分で認めることのできない場合が多い、
「先見の明」
と博士は兼ね備えていたと言ってもいいだろう。
それが、
「勝沼物理学研究所」
の設立であり、博士の死後いまだ名前に、
「勝沼」
の文字を残したまま運営を続けている、博士の遺産ともいうべき法人団体なのだ。
今回の主役である川北助教授も、この研究所の研究員であり、今ではなくてはならない重要な人物になっていた。
その彼が今回大きな発表をすることができたのは、
「博士があの世から、川北さんを真剣に応援してくれていたからなのかも知れないな」
と口々に言われていた。
川北が今回の受賞で何と言っても研究が成功したのは、彼がすべてを懺悔し、博士の意志を見事に継ぐことができたからだと誰もが思っていた。
そのことについては、一番の理解者であるのが佐久間弁護士だと思ったからこそ、今回の司会を頼んだのではないかと誰もが思っていた。
そんな回想をしながら、壇上の川北氏のスピーチは続く。