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短編集119(過去作品)

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沈まぬ太陽



                沈まぬ太陽


 空と海を分けるとすると、見た目、何割くらいになるのだろう。空が七で、海が三くらいになるのだろうか? 日本三景の一つである天橋立では有名な「股覗き」というのがあるが、同じように股の間から見ると、空がほとんどのように見えるから不思議である。
 今までに見たのは海と山だった。学生時代、緑鮮やかな山が遠くに聳え立っているのを毎日の通学で見ていた。海は近くにはなく、友達は海がないことを寂しがっていたが、潮風に当たると体調を崩すことがあったので、あまり好きではなかった。
 平沢晃が育った街、そこは都心部から少し離れていたので、まだまだ田んぼが残っているところだった。高校時代になると、やっと田んぼが開発され、マンションや、分譲住宅建設のために、土地が整備されてくるようになった。
 山まではいつも近くに見えているが、実際には結構遠い。最初に、
「近いんだ」
 と思ってしまうと、その感覚がずっと残ったままになる。
 しかも、四方を山に囲まれた盆地のようになっているので、時々方向感覚を失うことがある。子供だったのであまり気にはしていなかったが、大人になるにつれて、方角を意識するようになっていった。だが、身についたものがすぐに戻ることはなく、相変わらず方角が分からなかった。
 だが、方向音痴というわけではない。方角が分からないのは、ここだけで、他の土地に行くと結構分かっている。やはり、大人になってから感じるからであろうか。
 そんなことを思い出しながら、今目の前に広がっている光景を見ている。
 今まであまり見たことがなかったはずの海、しかも、ここは普通の海ではない。真っ青で、波があって、夕陽が沈む光景がダブってくると、自然に海の表面がオレンジ色に染まってくる……。そんな海をいつも想像していたのに、目の前に見えるのは、真っ白な海だった。
 日が沈まないのである。
 最初は沈み行く夕陽を見ていたはずだった。いつも想像している海がそこにはあって、オレンジ色に染まった海から迫ってくる風を感じながら、
「しばらくすると風がなくなって、そして日が沈んでいくんだ」
 その光景をずっと見ているつもりだった。
 今までに日が沈むところを見たことがなかった。
「夕凪」という言葉は聞いたことがあった。普段から通勤通学で通っている道でも感じたことがあったからだ。
 日が沈む少し前、風が止む時間帯がある。一番見えにくい時間帯で、眩しかった夕陽のオレンジ色に目が慣れてしまっているせいか、モノクロに見えてしまう時間帯がある。
 時間にして、ものの十分か十五分くらいのものだろう。日が沈むのはあっという間である。日が沈む頃には完全に風も戻ってきていて、短い時間なので、気にしなければ夕凪の時間は気がつかずに過ぎてしまうだろう。
 夕凪の時間に、暑さ寒さが一瞬消えることもあった。どんなに寒くても風がなければ、それなりに暖かさがある。歩いていると汗を掻きそうになるくらいだ。
 東北地方に伝わる「かまくら」、中は意外に暖かいと聞く。実際に入ったことはないが、風を遮断するだけでもかなり寒さを軽減できるだろう。同じ理屈なのかも知れない。
「いつ沈むんだろう?」
 最初はオレンジ色の太陽で、いつもと変わらなかった。だが、ずっと見つめているうちに白くなってくるのだ。
 まわりの空も一向に暗くなる気配はない。むしろ、明るさが増して来ているくらいだった。
「こんなことって」
 そう感じたのは、空を見始めてどれくらい経ってだろう。すでに目が空から離せなくなってしまっていた。
 そのうちに、どこまでが太陽なのか分からなくなってきた。空すべてが真っ白になってくる。しかも、空以外の海までもが真っ白である。流氷が流れているので、何となく動きは分かるが、動いているのは、流氷だけである。時間までが止まってしまったかのように感じるのは気のせいだろうか?
 白夜というのが頭をよぎる。
「沈まない太陽」
 話には聞いたことがあるが、真っ白い太陽を思い浮かべた瞬間に、白夜を思い浮かべ、ここが氷山に囲まれていることに気付く。
 エスキモーが遠くの方に点在している。どれほどの距離か分からないが、豆粒ほどの大きさにしか見えない。どうしてエスキモーだと分かるのかと言えば、
「氷山のあるところにいる人と言えば、エスキモーしかいないではないか」
 というだけの単純なものである。
 ペンギンだっているかも知れない。そもそも氷山があるからと言って南極だとは限らない。だが、南極しか思い浮かばないのは、ただのお見込みに過ぎなかった。
 本当はエスキモーと呼ばれる人たちは、北極圏にしか存在しないはずである。本当は分かっているはずで、住居であるイグルーが見えているのは、夢を見ていると自分で分かっているからではないだろうか。
「今、何時なんだろう?」
 この世界が白夜であることは間違いない。そういえば、最近白夜に関して考えることがあった。
 平沢は、自分の血液型を気にしていた。中学生の頃に血液型を意識するようになったのだが、ちょうど中学生というと血液型で相性判断などをしていた頃だった。平沢はAB型である。AB型というと世間では一番少ない血液型で、本来なら重宝されるべき血液型なのだが、ABO型の血液判断されると、「変わり者」のレッテルを貼られることが多かった。
 どうしてもA型の血液の人が多く、次がO型。昔はO型の人も結構多く、A型が押され気味だった時期もあったようだが、日本人の中で一番好まれるのは、やはりA型の人であろう。
 勤勉実直なA型と称され、神経質なところがあるが、どうしても多いこともあってか、圧倒されることもある。あくまでも一般的に言われていることだが、O型のように自分中心の考え方をする人たちや、B型のように陽気さが前面に出てしまって、どちらかというといい加減なところの多い人ばかりだと、なかなか世の中は回っていかないだろう。
 AB型になると、今度は二重人格のレッテルまで貼られてしまう。アブノーマルな世界を好み、他の人との調和が苦手というところまで分析されてしまっては、AB型は肩身の狭い思いをしてしまう。
 しかし、AB型は少ない中でも、結構天才が多いという。それだけに妬みを受けることもあるのではないだろうか。他の血液型の人たちからいろいろ言われても気にする必要などサラサラない。
 それでも、思春期にあたる中学時代、血液型で判断されることには抵抗感があった。小学生の頃までは、親や先生から、
「他人と協調しながら生きていかなければいけないんだよ。人間というのは一人では生きられないんだからね」
 と言われて、素直にずっとそう感じて生きてきた。その言葉には間違いはないだろう。納得しないことに対して従順に従うような少年ではなかったからだ。そこからしてもそもそも血液型が知らず知らずに自分に影響を与えていたのだ。
 その中でもA型の人たちとは気が合っていた。血液型の話さえしなければ、別に違和感なく話ができた。
作品名:短編集119(過去作品) 作家名:森本晃次