軽便鉄道「駿遠線」復活物語
■軽便鉄道の紹介(軽便鉄道の栄枯盛衰)
軌間(線路の幅)は「広軌」と「狭軌」に大きく分類される。前者は新幹線や幾つかの私鉄が採用しており、後者はJR在来線を始め多くの私鉄や地下鉄が採用している。
軽便鉄道とは明治時代の「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道であり、狭軌(1067mm)よりさらに狭く、その多くは762mmで、森林鉄道や鉱山鉄道などが採用し、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。
軽便鉄道の建設費や維持費は安価であり、技術レベルが低く貧しかった当時の日本においては、最適な鉄道の敷設方法だった。機関車はもちろん、客車も貨車も軽いため、軽量なレールで十分だった。
小さくて遅い軽便鉄道は急曲線に耐え、地形的制約を克服できるため、村から村を回る身近な交通手段となり、生活に密着していった。
輸送力は小さかったが、産業の未成熟な地方において、限定的な発展を遂げた事例が多い。
①黎明期
狭軌の1067mm未満の工部省釜石鉱山鉄道が、イギリスからの資材輸入で明治13年に建設された。
その後の「私設鉄道条例」および「私設鉄道法」により、明治33年以降、軌間は原則として国鉄と同じ1067mmとする政府の方針となり、簡易規格の鉄道はほとんど開業されず、後に爆発的に増える軽便鉄道にとっては、可能性が無くなったかに見えた。
②拡大期
明治39年に「鉄道国有法」が公布された。
私鉄の国有化が精一杯だった政府は、地方開発のために大きな資金を回せず、開業条件を大幅に緩和した「鉄道軽便法」を明治42年に公布した。
その直後、国鉄線の収益を財源として軽便鉄道の敷設を推進できる「軽便鉄道補助法」が制定されるやいなや、日本の近代化と並行して、軽便鉄道が北海道を除く全国で爆発的に普及していった。
例えば、多くの工場や鉱山での物資輸送には設備の投資が容易な軽便鉄道が敷設され、林業の発展と共に森林鉄道が、大規模河川改修やトンネル工事などには作業用の簡易軌道が敷設され、その数は363路線にも達した。その中には、駿遠線等の地域の人たちを運ぶ目的の軽便鉄道も含まれた。
③衰退と終焉期
鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しい軽便鉄道は、大正10年以降、路線バスの普及に伴い減少傾向に転じ、昭和に入ってからの新規開業は途絶えた。
そして昭和10年までに、多くの零細軽便鉄道が淘汰され、更に第二次世界大戦中には、一部の路線が不要不急線として廃止・統合が進んだ。
そして戦後、燃料不足で自動車輸送が機能不全に陥ったため、軽便鉄道の輸送量が一時は増大したものの、戦後の混乱が明けた昭和25年以降の高度経済成長が始まると同時に、モータリゼーションが進み、それに伴い軽便鉄道各社の経営は悪化していった。
昭和45年頃には、ほぼ全てが廃線となり、軽便鉄道は終焉を迎えた。
作品名:軽便鉄道「駿遠線」復活物語 作家名:静岡のとみちゃん