Silver Spoon
「わたし、あの日はなんかノリが違ってて。夜にやっぱり声がしたからさ、幽霊にもビリヤニって叫んだんだよね」
「笑ってた?」
歩美の言葉に、わたしは首を横に振った。歩美は理性の効いた笑顔に戻ると、言った。
「でも、ほんとにあの一瞬だけだったな。梨沙子の家って、あまりうろつけない雰囲気あったし」
「小学校のとき、ぱったり遊びに来なくなったよね。わたしが歩美の家に遊びに行くようになったこと、なかった?」
わたしが言うと、歩美は肩をすくめた。
「もう時効だよね。トイレ借りたとき、多分曲がる方向を間違えて、変なドアを開けちゃったんだ。それでサエちゃんにすごい怒られた」
確かに、トイレから戻ってきた歩美が急に静かになってしまった日があったような、そんな記憶は微かにある。
「トイレは確か、わたしの部屋から出て一階に降りたら、まわれ右して、また右だったはず」
「あーなんか、そんな感じだったかな。ドアの真ん中にフクロウの絵みたいなのがあったよ」
それは、父が経営していた会社のロゴだった気がする。それ以上近づくなよと言っているような、目を見開いたフクロウの片目。歩美はそっちに歩いていって、サエちゃんに見つかったのだ。
「で、開けたんだ?」
「うん。開けたけど、真っ暗な廊下が伸びてて間違えたって思ったんだよね。そこで後ろからサエちゃんに声をかけられたと思う」
歩美は限界まで頭をフル回転させているように、少しだけ眉間にしわを寄せて笑った。サエちゃんが怒っているところは、あまり想像できない。でも、家を守るという義務があるわけで、そこは厳しく線引きしていたのかもしれない。
歩美と駅で別れて花を買い、病院までの道を歩きながら思う。サエちゃんはこれからどうするのだろう。昔に、母から聞いた話。サエちゃんは母より一歳年下で、中学校時代の後輩らしい。身寄りがなく、母は自然に成功者へのレールに載る前から、ずっと助けたかったらしい。結城家に嫁いだとき、当時介護の職に就いていたサエちゃんを住み込みという形で引っ張り込んだのも、やはり母だった。唐突にそのエピソードを話してきたのは、確かわたしが中三に上がった辺りだった。あれは今思い返すと、サエちゃんにばかり懐くわたしに対する攻撃だったのかもしれない。今までに人生で得てきたものや、住んできた世界が違うのだと。
面会者欄に名前を書き込んで、八階を案内され、わたしは来客用のカードを首から下げたままエレベーターへ乗った。サエちゃんのフルネームは、高倉冴子。小学校のころに何度か高倉さんと呼んで、『サエちゃん』でいいですよと言われてからは、そっちが定着した。母より一歳年下だから、五十歳。わたしは人生の中でそれなりに容姿を褒められて育ったけど、サエちゃんには敵わないと、常に負けを認めていた。ただ顔つきが綺麗だとか、目が大きいとか、そういうことではなかった。声を出して笑っていても、どこか芯が残っているというか、心を保つための最後の栓は抜けていなくて、その堂々とした身のこなしは本当に素敵だったのだ。
八階の個室をノックして顔を覗かせると、カーテンが開かれたベッドの上に、サエちゃんが座っているのが見えた。その顔が振り返るなり、泣き顔に変わった。
「梨沙子さん、本当に申し訳ありません」
「何を言ってるんですか」
わたしは花を持ったまま早足で駆け寄り、ベッドの近くに屈んだ。サエちゃんの顔はほとんど真っ白で、起きていられるのが奇跡的に思えるぐらいだった。
「わたしは、サエちゃんの見舞いに来たんです。父母のことは残念でしたけど、サエちゃんが生きてて本当に良かった」
何でも慎重に考える性格のはずが、言葉が勝手にぽんぽんと飛び出してくる。わたしが言うと、その言葉を噛みしめるようにサエちゃんはうなずいて、目を伏せた。ようやく言葉が思いついたように顔を上げると、向かい合わせに座り直したわたしの方を向いて、言った。
「私は……、戸締りの確認がだいぶ遅くなってしまって」
その言葉の意味は、かつて結城家に住んでいたからよく分かる。サエちゃんは日付が変わる前に、全ての窓と扉を点検する。それは一番大きな玄関から開始されて、車庫側が折り返し。二階は、わたしの部屋があった側以外は元々施錠されているから、その周辺だけ。最後に、一階の寝室近くにある大きな窓。なぜこんなに詳しいかというと、何度か一緒に行きたいといって、連れて行ってもらったことがあるから。サエちゃんは冗談めかして断り続けるけど、わたしが時折繰り出すわがままに結局付き合って、懐中電灯を持たせてくれた。
「あんなに広い家を、一人で確認するのは無理がありますよ。わたしがいないと」
わたしが少し明るい口調で言うと、サエちゃんは最小限の顔の動きだけで、その冗談に付き合ってくれた。懐中電灯を持って一緒に点検した夜は決まって、壁から例の声が聞こえて来たり、結城家はお化け屋敷としての本領を発揮した。
「サエちゃん、毎日点検してたの怖くなかったですか? わたし、一緒に点検したあとはいつも、例の怪奇現象みたいなやつに出くわしていたんです」
わたしが当時を思い出しながら言うと、サエちゃんは苦笑いを浮かべた。
「大きい家ほど、色々と吸収してしまうものです」
少しの間沈黙が流れて、車椅子のタイヤの音が外を通り過ぎていったとき、わたしはサエちゃんの格好に気づいて言った。
「もう、外に出られるんですか?」
「はい、退院間近です」
サエちゃんはそう言って、壁に吊ってある上着に視線を向けた。それを着て街を歩く自分の姿を思い浮かべるように、サエちゃんは目を細めた。わたしは同じように、上着を眺めた。家では決まった格好をしていたから、私服を見るのは不思議な感じだ。サエちゃんは言った。
「聞いておられるかもしれませんが。私はお母様と同じ学校の出身です」
「母に教えてもらいました。若いころは、苦労されたと」
わたしの言葉に、サエちゃんは小さくうなずいた。いつもぴんと張っていた背中が、少しだけ丸まったように見えた。
「苦労というのは、他と比べないと見えてこないものでして。今振り返れば、人一倍しんどいことをしてきたのだなと、思うときはありますね」
五十代に入ったサエちゃん。わたしの目にはどうしても、彼女の人生自体が結城家を構成する部品のように見えてしまう。
「結城家の面倒を見る仕事をしていて、幸せでしたか?」
「はい。私自身が家庭を持つということこそ叶いませんでしたが、居場所というのは本当に大事です」
サエちゃんはそう言うと、少しずつ会話の音量が上がっていると思ったのか、息を潜めるように口をつぐんだ。同時にわたしの鞄の中で携帯電話が鳴って、わたし達は同時に肩をすくめた。視線を落とすと、メッセージが一件入ったのがちらりと見えた。
サエちゃんと同じように声を抑えて、わたしは言った。
「ヘルパーって、どんな仕事だったんですか?」
「言い方は悪いですが、障害を持ったお子さんを支える仕事です。半分ボランティアのようなものでした。お母様にその話をしたら、自分のことをタダで切り売りしないでと言って、私は逆に怒られてしまって」
作品名:Silver Spoon 作家名:オオサカタロウ