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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Silver Spoon

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 多分、そんな短い会話を交わしたと思う。あのとき、サエちゃんが言葉を発する直前に小さく漏らしたため息の正体は『まだ』という二文字のはずだ。
 まだ、何か聞こえますか?
 本当に分からない。ただ、中学生だったとき、歩美と家に帰っていて、足を止めた彼女が二階に何かいると言った日。あのとき率直に『歩美に見えるなら、本物なんだ』と実感した。何かが視えるというのは本当の才能だと思っていたし、その存在に気づいているのがわたしだけじゃないという、安心感もあった。
 コーヒーを飲みながら昔話をしていると、サエちゃんは『多感な子供だったのですよ』と締めくくった。掃除は相変わらず行き届いていて、サエちゃんが支配人のホテルみたいだった。七時ぐらいに両親が帰ってきて、就職先の話をした。結構話は弾んだほうだったけど、結局泊まる気にはなれず、サエちゃんの引き留めをどうにか振り切って、歩美が一人暮らしをするアパートへお邪魔した。確か、洗濯機の後ろに歩美の髪留めが飛んでいってしまい、わたしは肩を脱臼しそうになりながらそれをどうにかして救出した。歩美は『いいよ、また買うから』と言ってくれたけど、わたしには到底見過ごせない問題だった。
 わたしが、恐れるものを一つだけ挙げるとするなら、それは、手が届かなくて取り返せない場所。今でもその恐怖心は健在で、皮肉なことに仕事では重宝されている。例えば、メールを送る前に何度も文面と誤字をチェックしたり。完璧主義だと思われている節がある。実際には、送ってしまったら取り戻せないという怖さを打ち消すために、何度も確認しているだけの話。
 あの家に対して、全く同じ感覚がある。手が届かないどころか、玄関とキッチン、わたしの部屋以外は、何も知らなかった。ふと気になったのは、それは今でも同じなのかということ。
 マンションに辿り着いて、わたしは一二〇五号室に入った。表札には律儀な『結城』の文字。見えない隙間が存在しない部屋。どこにでも、手が楽に入るぐらいの空間がある。最初に家具を配置したときは、これしか選択肢がないように思えた。でも、自分の人生だと言い聞かせてきた空間に、両親の訃報は確かに風穴を空けた気がする。一週間近くが過ぎて、仕事を終えて帰って来る度に、疑う気持ちは強くなった。おかしいのは、あの家から抜け出したわたしと、この隙間だらけの部屋なのだろうかと。
 そんなことを考え出していたら、週末の予定は完全に塞がった。歩美とは、明日のお昼に会う約束をしている。単に昔話をしたいだけというのもあるけど、もう少し当時のことを思い出したい。次は、サエちゃんの入院する病院。五丁目七番に聳え立つ結城家が、最後。玄関の鍵が変わっていなければ、持っている鍵で開くはずだ。
 用事を全て終えて眠る直前、壁に耳を当ててみた。子供のころは当たり前にしていて、前の家に置き去りにしてきたこと。目を閉じて集中していると、ひび割れが広がるような、微かな音が聞こえた気がした。それだけではなく、頭の中で風が唸るような音も。隣の六号室は空いていて、誰もいない。
 それでも、わたしの耳は何かを拾って、頭の中へ伝え続けている。
    
 歩美は、警察官一家の娘。兄が二人いて、両方とも警察官になった。いつの間にか『末っ子だからね』が口癖になり、それは反面教師のような形で、彼女の進路にも影響したと思う。今はデザイン事務所に勤めていて、物静かなわたしと対照的で何にでも興味を持つ性格だけは、今でも変わっていない。普通の人に見えないものが目に映っているからこそ、デザイナーになったのかもしれない。それでも歩美は、昔から常識をしっかりと備えていて、やはり最初のひと言は『久しぶり』ではなく、『大丈夫? 大変だったね』だった。料理を注文してメニューが下げられたところで、歩美はようやく言った。
「久しぶりじゃない?」
 本当に久しぶりだ。メッセージでは頻繁に連絡を取り合っているけど、顔を見るのは一年以上空いた。ご飯を食べながら近況をお互い言い合って、文字だけだったやり取りのおさらいを一通り終えた後、わたしは言った。
「今も、感覚は鋭い?」
 歩美は、フォークで器用にレンズ豆を操っていた手を止めて、顔を上げた。
「いやー、どうでしょうねえ。普通が一番だよ」
 冗談めかした笑顔は、昔から変わっていない。普段は明るくて、ムードメーカー的なところもあった。だからこそ、何かを見たときの真剣な表情はコントラストがあって、余計に怖く見えた。
「中学校のころさ、よく一緒に帰ったじゃない。家の二階に誰かいるって、言ってなかった?」
 わたしが訊くと、歩美は首を傾げた。
「えー、中学か。何年のとき?」
「二年かな?」
 そう言って、わたしがグレープフルーツジュースを一口飲んだとき、歩美は目を大きく開いた。
「思い出した、梨沙子の家ね。誰もいないはずの窓でしょ?」
 少し上ずった声で言いながら、それでも歩美は、神妙な表情をかろうじて崩さなかった。記憶に辿り着いたからといって、大騒ぎするタイミングではないと思っているのかもしれない。
「わたし、両親との付き合いがほんとに薄くて。サエちゃんがお母さんみたいなものだったの。だからさ、悲しいとか、あまり頭に浮かばないんだ」
 わたしが言うと、歩美は最も悲しいことを見つけてしまったみたいに、目を伏せた。
「今日会うって決まったから、親にも聞いてみたんだけど。私達が生まれる前の話ね。お金持ちで、すごい忙しい夫婦だったって。サエちゃんが住み込みで常にいたのも、そういう事情があったんだろうって」
 わたしは、うなずいた。自分が写る写真は、部屋にまとめられている。でも、自分と接点がある部分以外は、全く知らない。自分の両親が、どういう人生を送ってきた人間なのか。歩美は、当時の記憶を次々に呼び出すように視線を泳がせながら、続けた。
「あ、でもさ。サエちゃんじゃなかったのかな?」
「わたしが玄関に入ったら、時計の電池を換えてたと思う。そんな短時間で玄関まで行けないし、そもそも家のあっち側って、誰も使ってなかったんだ」
 わたしが若干早口で言うと、歩美は気圧されたように少しだけ顔を引いた。
「マジか。もうちょっと思い出す。冬服だったよね?」
 歩美はスマートフォンを取り出すと、昔の写真を探り始めた。細い指が画面の上をすらすらと滑って、小さく咳ばらいをした歩美は、わたしに画面を見せた。
「これ。梨沙子とバイバイしてから、もう一度戻ったんだけど、そのときは誰もいなかったんだ」
 ベージュの壁に、真っ黒な空洞に見える窓が並んでいる。写真という容赦の無い手段で刻み込まれた、十年前の結城家。
「ありがと。十年前の写真があるって、すごい」
「私、捨てられない人だからね。梨沙子と真逆かも」
 歩美は自分に呆れたように笑うと、そのまま相手へ向けるための笑顔に切り替えて、続けた。
「なんか、帰り道さ。同じ言葉ずっと連呼してなかったっけ?」
「ビリヤニじゃない?」
 わたしが言うと、歩美は、当時と同じ仕草で頭を逸らせて笑った。
「それ!」
 コントロールできなかった大声で周りを凍り付かせて、歩美は少しだけ頬を紅潮させた。わたしは苦笑いを浮かべながら言った。
作品名:Silver Spoon 作家名:オオサカタロウ