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間隔がありすぎる連鎖

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。

            運命の異母兄弟

 F県K市内は、県庁所在地の近くにあることで、ベッドタウンとして、戦後早くから発展してきた。近くには戦時中には陸軍の飛行場があり、戦後は占領軍に撤収されたことで、このあたりの戦後は、占領軍の軍人がたくさんいた地域でもあった。
 陸軍の大規模な演習地が小高い丘にあったことから、演習地が占領軍の住居として、団地が建設されたことで、人口も増えてきた。軍人相手の店も増えてきて、社交場も賑やかだった。
 旧陸軍御用達の修理工場などは、戦後米軍の修理工場となり、元いた従業員も路頭に迷うことはなかった。
 日本軍は占領軍によって解体され、財閥などの特権階級もなくなり、民主国家に生まれ変わったのだ。
 修理工場では、多くの屑鉄が残るようになっていた。戦後すぐは利用方法もあまりなかった屑鉄だったが、戦後五年もすると、朝鮮半島で戦争が起こった、いわゆる、
「朝鮮戦争」
 である。
 ここでは、鉄が必要となった、鉄は鉄砲の玉となる。修理工場でできた屑鉄は高値で売れ、修理工場は大いに潤うことになる。
 しかもバックには占領軍がついているのだ。後ろ盾を持ち、お金も蓄えられる。修理工場は戦後最初の頃に大いに発展した文化の一つとなった。
 朝鮮戦争は、やっている側は大変だっただろうが、日本の産業復興には実に好都合だった。四年にも及ぶ戦争は、朝鮮半島を廃墟にし、戦時中の日本のようであった。
 ただ、民族統一を目標としていた戦争目的は。実際には資本主義陣営と社会主義陣営の代理戦争でしかなく、朝鮮は今でも統一されていない。
 そんな時代に修理工場として発展してきた、
「松川修理工場」
 は、朝鮮戦争後も不況のあおりを受けることもなく、占領軍からの需要によって、発展してきた。
 そのうちに、日本が主権を回復し、次第に米軍が撤収し始めると、今度は自衛隊が彼らに接触を始める。
 自衛隊ぼ武器は、米軍と同じものを使っているのも多かったので、米軍御用達の彼らは自衛隊からも十分な信用を受け、会社が保たれていった。
 初代社長の松川清五郎。彼は若干三十歳で社長として君臨し、協力者であった定岡恵三と二人三脚で工場を大きくしてきた。だが、時は高度成長期になると、定岡は、のれん分けをしてもらい、
「定岡精機」
 を立ち上げた。
 資金は十分だったのだが。定岡恵三はあくまでも技術屋であった。
 経営手話はほとんどなく、技術的な裏付けがなければ、手を出さないという偏った仕事をしたために、会社はうまくいかなくなっていた。
 逆に何でも頼まれたことはこなすという横領の良さや貪欲さ、さらには謙虚さから、松川修理工場は右肩上がりで発展していく。
 何とか松川は定岡の会社を助けようとしたが、最後には匙を投げてしまうほどの考え方の違いに、とうとう、定岡精機は倒産してしまった。
 路頭に迷った定岡恵三は、家族を残して自殺。定岡の家族は松川に助けられて生きるしかできなくなってしまったのだ。
 引き取られてからは、松川が存命の間は、定岡家は松川家の中で優遇されていたが、清五郎が死んでしまうと、定岡家に対しての風当たりは強くなる。
 松川が死んだのは、昭和五十年代の前半だっただろうか。高度成長時代が終わり、公害問題などが深刻な社会問題になっていて、政府も利権を巡った事件がしょっちゅう起こっていたような、そんな時代だった。
 戦後のような部落やバラックなどはもうなくなっていたが、貧富の差が目立ち始めた時期でもあり、それでも、国家としては、世界のトップが見えていた時期でもあったのだ。世界は相変わらずの冷戦時代、まだ先が見えていた人は誰もいなかっただろう。
 当初は町工場だった松川修理工場も、その頃には株式会社となり、家電の修理から車の修理に至るまでの修理全般を請け負う会社に成長していた。一部に販売や製造も手掛ける会社となり、地道ながらに成長を続けていたのだ。
 そのおかげか、バブル期にも乗り越えることができた。他の会社のように、急激な事業の拡大をしなかったことで、危険を回避するのに素早い行動が取れた。おかげで若干の事業縮小を余儀なくはされたが、会社が傾くことなどはなく、関連会社を含めて、ほとんど被害なく会社を存続させることができたのは、奇跡とさえ言われた。
 二代目社長である松川省吾が、初代社長の意向を守り、会社を盛り返した。
 彼は歴史が好きで、いわゆる
「二代目」
 というものは、初代の偉大な功績の影に隠れてしまうことに焦りを感じないようにしていた。
 基本的には初代の意向をまっとうすることが一番いいとされている。その歴史はきっと彼の功績とともに残るに違いない。
 今は三代目社長となっていた。
 三代目は松川大吾。今では五十歳になっている。妻の鮎子は四十五歳。関連会社のお嬢さんとの、いわゆる、
「政略結婚」
 だった。
 この結婚はどちらにとっても有利に働くもので、幸いだったのは、二人とも政略結婚であっても、別に構わないという考えを持っていたからだ。
 奥さんの方は、昔ながらの、
「男性絶対主義」
 の家庭に育ってきて、英才教育の中で、
「旦那を立てることだけを女としては考えていればいいんだ」
 と言われて育ってきた。
 松川家には、戦後の松川清五郎と共同経営をしていて、のれん分けに失敗した定岡家の人たちも、一緒に住んでいた。
 定岡家の男性は、松川の会社で、主要な地位に就き、松川を盛り立てる重要な役割であったが、女性の方は、まるで妾のような待遇となっていたのだ。
 だから、松川大吾は政略結婚であっても、妾がいることで、結婚というものに熱いものを感じていない。
「性欲のはけ口は、定岡家に求めればいいんだ」
 と考えていたからだ。
 定岡家の妾は、弘子と言った。
 妾と言っても、ずっと家にいるわけではない、ちゃんと資格を取って仕事もしていた。弘子は看護師であった。
 松川大吾には、子供が二人いた。一人は妻との間にできた貞夫であり、次期社長の最有力候補だった。
 そしてもう一人は弘子との間にできた哲郎である。
 貞夫は二十歳、哲郎は十八だった。
 妾と正妻が同じ屋根の下で暮らしている。一応、身分的な差別化は、家庭を守るという意味でも必要なので、妾達は離れで暮らしているが、別に本家をやっかむようなイメージではない。息子の認知ももちろんされているし、正妻と妾も仲が悪いわけでもなく、そのおかげで、子供同士も結構仲がよかった。
 松川大吾は異母兄弟の息子が仲良くしているのを満足して見ていた。
 貞夫に対しては、
「お前がこの会社を責任をもって盛り立てていくんだぞ。そのためには弟である哲郎を頼るんだ」
 と言っていた、
 哲郎には、
作品名:間隔がありすぎる連鎖 作家名:森本晃次