四人の同窓会
現在の広いグランドでは、そういうハプニングも起きないでしょうが……。
あの日、あなたは卒業式の出来事を二十年ぶりに再現してくれました。校門での記念写真もそうですが……。できれば、その時の写真を送ってくれませんか?
あなたは学校から駅に向かう途中で小さな神社に寄り道したが、本堂で何をお願いしたのですか? 私は5秒の青春の続きを神様にお願いしました。
あなたが上り線でK町に向かっ後は電車が消えるまで見送ってから、昔のように下り線に乗りました。
私たちの間には五秒の熱い青春と二十年以上の空白しか存在しませんが、その空白を埋めるために暫く文通をしてみませんか? 卒業後の想い出つくりをするのです。
赤色の万年筆を同封していますので、これであなたの美文字をしたためて返信してください。まだまだ、厳しい寒さが続きます、風邪など引かれぬようにくれぐれもご自愛下さい。
198X年1月 相原公亮
返信1
相原公亮様
驚きました。あの相原が手紙をくれるなんて……。相原の心遣いを嬉しく思いました。
高校の三年間は約一億秒だから、そのうちの僅か五秒が相原と私だけの特別な時間ですね。ただ、相原の思い込みがひど過ぎる気もするけど……。
富津君の墓参りをして肩の荷が下りました。それにしても、喧嘩太郎の村木君もいい男になりましたね、もちろん相原もね!
あの日、昔通学した景色を私の記憶の海から引き寄せて、もう一度アップデートしました。母校も建て替わって他校のようでしたが、グランドだけはそのまま残っていましたね。
当時ボールのことは誰にも偶発的な出来事だと説明してきましたが、感動して思わずあなたに本当のことを言ってしまいました。
あなたがグランドを走らされている姿を目撃して、直ぐに野球部の北川監督にあなたの無実を告げに行ったことがあります。監督は『下半身強化のためなので気にするな』と、笑っておられました。
あなたはバレーコートのすぐ傍のセンターを守っていたので、いつも近くで後ろ姿を見ていました。あなたは学校一の優等生だし、わたしの出自を考えれば叶わぬ思いだと諦めていました。
ただ、練習が終わって駅に着いた時は食堂に顔を出すようにしました。だって
、相原がいるかもしれないし……、だから小遣いがある時は天ぷらうどんをご馳走しました!
本堂で何をお願いしたかは内緒ですが、バレー部は試合の前にはいつもお参りしていましたので……。
お申し越しの写真は何か私の方が年上みたいで気が進みませんが、一応同封しておきます。恥かしいので誰にも見せないでくださいね。
文通の件は気が向いた時ということでお願い致します。
赤い万年筆、ありがとう。大切にします。便せんにしたためた青インクの文字が気に入っています。
198X年1月 平山凛子
手紙2
平山凛子様
もう立春も過ぎて、故郷の山や川は春へ移ろう準備をしています。
早速、記念写真を送って頂きありがとうございます。この写真のあなたは少し寂しげで妖しい大人の魅力が漂っています。
今度お会いする機会があれば、海峡の遊歩道の時のように、せめて恋人歩きくらいはさせて下さい。村木が焼きもちを焼いても……。
やはり、あなたの達筆には青インクが似合います、黒文字は暗くて……。
先日帰省して、久し振りに以前話した幕末の志士の招魂場に行ってきました。この神社は国道から奥まっているので、観光客も知らないスポットで普段は閑散としてとても静かです。
吉田松陰以下、名もない者にいたるまで等しく祀られています。その時にふと思ったのは伊藤博文のことです。
招魂場に彼の石碑は見あたりませんでしたが、彼は松陰や高杉晋作らと深く関わっています。彼は当時の征韓論者ではないようですが、明治末期に初代韓国統監にも就任しています。
その歴史を振り返れば、あなたを不快にさせるかもしれません。私の思いだけで招魂場を推しましたが、一端白紙に戻したいと思います。 私は単に晋作は万民平等思想を掲げており、それを石碑で実践していたことを知って欲しかっただけです。私の思慮のなさをお詫びします。
矢儀先生から母校に呼び出されて訪問しましたが、先生は母校に居座って教頭先生になっておられました。我々は僅か3年間の在校でしたが、先生は四半世紀に渡っていますので、母校の生き字引です。
あなたのことも話題に上りましたが、長崎に在住しているとだけ話しておきました。
その時に体育館を覗いたら、バレー部が練習していました。
あなたの日焼け顔と違って、彼女たちは色白でした。やはり、あの時代だからこそ五秒のドラマが生まれましたが、今の体育館では成立しません。
あなたが元気になって、阿蘇旅行が実現できればいいですね。その時を楽しみにして、この冬を乗り切りましょう……。
この余寒を越せば、もう直ぐ卒業式の三月一日を迎えます。そしてひと月も経
てば、学校の坂道の桜も満開になるでしょう。
その頃には、きっとあなたにも温かい春が巡ります……。
お体、くれぐれもご自愛下さい。
198X年2月 相原公亮
それから暫く、平山凛子から返信がなかった……。
そして、四月になって桜の花びらが散る頃に、弱々しい青文字の手紙が届いた。
返信2
相原公亮様
返信が遅れて申しわけありません。
体調がすぐれずに、ずっと寝込んでいましたが、今日はベッドで外を見ながら相原の万年筆を握っています。
今年に入ってからは、相原の万年筆で便繊を埋める時間が唯一の楽しみでした。でも、最近はこの文字の通り、万年筆をもって字を書くことさえも困難になりました。文通もこれで終わりにさせてください。
これからは、この赤い万年筆を枕元に置いて、書きたいことを心の中に綴ることにしたいと思います。
相原と話している時は、在日であることを忘れて自由で楽しい時間を過ごすことができました。
相原が推してくれた招魂場はまだ元気な頃に、妹と二人で行って来ました。
相原が案内すると言ってくれたのにごめんね、二人で行くのは正直少しだけ不安だったの……。
あの石碑を見てあなたが推薦してくれた意図が分かりました。不快になるなんてあり得ません。だって、農民や商人、そして力士などの無名の人の石碑も同じ高さで並んでいましたね。感動しました……。
私は相原が好きだったから、硬式ボールを足で止めたのです……。
ずっと気になっていたのですが、あの時、相原が『ありがとう』って言った気がしたけど……、スポーツ精神に反する行為にお礼はおかしくないですか?
相原は無実の罪でグランドを10周させられたけど、余計なことをしてごめんなさいね。
学校訪問の帰りに神社にお参りしたのは、私の病気のことではありません。
相原公亮と五秒の特別なひと時がもてたこと、そしてカウントダウンの終末期にあなたと濃密なお付き合いができたことへのお礼でした。