Frost
萩山が言うと、神谷はうなずいた。萩山は、ハイラックスの前に立つ神谷の後姿を見つめた。見た目の印象は、二十代半ば。四駆を乗りこなすようには見えない。千尋が引き戸を開けながら、言った。
「風邪、ひいちゃいますよ」
玄関で靴を脱ぎ、康夫が丁寧に揃える様子を見て、神谷が自分の靴を綺麗に並べ直した。萩山は、千尋から新品の歯ブラシを手渡され、神谷が洗面所を使う間、順番待ちをしながら思った。こんな風に誰かが歯磨きを終えるのを待つのは、子供のとき以来だ。今でも、妻の明日奈と生活リズムが合うことはあまりない。修也と玲香は大抵の場合先に眠っているし、会うとすれば朝だが、それは萩山の生活サイクルだと、寝る直前の時間だ。疲れていてあまり相手をできないし、特に玲香はそれを理解していて、気を遣って距離を置いているようにすら見える。結婚して四人家族になったが、基本的にひとりだった。神谷が出てきて、康夫を入れ違いに洗面所に送り出したとき、隣に立った神谷が言った。
「お祭りは、明後日にあります。この集落は歴史が長いんですよ」
萩山は、野瀬から聞いたばかりの知識を頭に呼び起こして、言った。
「ご先祖様に、平和に過ごせた感謝をする。ですよね?」
神谷はうなずいた。居間に置きっぱなしになった食器を片付けている千尋の後ろ姿を見ながら、呟くように言った。
「実際には、村人が神様を守るお祭りなんです。普段守ってもらっているから、そのお返しをする」
「守るって、一体何から?」
萩山が聞き返すと、神谷は居心地悪そうに、自分の名前が書かれた名札に触れた。
「悪いものからですよ。この集落では、神様というのは完璧な存在じゃないんです」
萩山は、神谷の言葉を聞きながら思った。千尋が食器を片付ける手が、少しだけ静かになったように感じる。神谷が今話した内容と比べると、野瀬の説明は言葉足らずで、不正確だ。記者なのだから、そう話すだけの裏付けは取っているだろう。萩山は、食器を重ねて台所へ歩いていく千尋を目で追った。
「ご両親は、なかなか帰ってきませんね」
神谷はうなずき、萩山の方をちらりと見てから言った。
「お祭りが近いので、大人は皆、社の方へ寄っていますよ」
片づけを終えて戻ってきた千尋を見た萩山は、彼女もまだ成人していないということを思い出した。
「ここの歴史は、私より、神谷さんの方が詳しいですよ」
千尋はそう言って笑い、萩山が歯を磨いている間も、まだ何かを話していた。康夫の笑い声も混じっている。萩山が洗面所から出ると、全員の寝支度が終わったことを確認するように、千尋が視線を走らせた。
「朝食は、八時に準備します。起きられますか?」
そのいたずらっぽい笑顔は康夫に向けられていて、康夫は所在なさげにうなずいた。萩山は、康夫の表情をじっと観察した。夜型で、寝入るまでに時間がかかる。問題は、千尋がそれをすでに知っているということだ。たった一日なのに、千尋は萩山兄弟について、ずいぶんと詳しくなっているように感じる。その一夜漬けの知識の中には、康夫が罪悪感なく話せる『犯罪』も混じっている可能性がある。胃の中はそういった懸念に邪魔されて、動きを緩めたり、すぐに勢いを取り戻したりして落ち着かなかったが、出てきた言葉は全く違った。
「ほんとに、ごちそうさまでした」
萩山の言葉に、千尋は微笑みながら言った。
「気に入っていただけて、よかったです。おやすみなさい」
萩山は、部屋までの階段を上り終えて、部屋に押し込むように、康夫を先に入れた。奥の部屋の扉を開いた神谷がぺこりと頭を下げた。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
萩山は頭を下げながら言い、部屋に入った。康夫が後ろからついてきて、扉を閉めた。電気ストーブの前に座ると、電熱線が赤く熱されるのに合わせて、頭の中は澄んでいった。もちろん、酒の力が相当、思考力を削いでいる。後ろで、康夫がドタバタと靴下を脱ぐ音も、現実に引き戻すのに一役買っている。名前と顔は、当然知られた。カローラバンには個人を示す情報は何も乗せていないが、車検証は入っている。一番の問題は、動かないことだ。対して、軒先に停められた神谷のハイラックスは、四駆だ。鍵は隣の部屋にあるのだろう。突然現れたデコボコ兄弟。あっさりと姿を消したとして、どれだけ覚えているだろう? さっきの集会場での宴会では、写真を撮っている住人がいた。顔を逸らせていたから、写り込んでいても分からないだろうが、それでも記録の一部になったのは事実だ。
「寝ろよ」
萩山は、電熱線を眺めながら康夫に言った。布団を巻き上げる音が聞こえてきて、隙間風の音をかき消した。それだけでも、ひとつ手間が減ったように感じる。この静けさは、さっきも似たようなものを一度感じた。長池が集会場に現れたときのことだ。萩山は、不自然なぐらいに整った沈黙を思い出していた。
長池の家は、川の手前にあった。あの家も『よそ者』なのかもしれない。
二〇二一年 一月
集落に向けて架けられた橋は、欄干の付け根から延びる雑草のせいで余計に狭く感じ、マジェスタの車幅だとかなり心許ない。やや荒れたコンクリートの上を進めながら、玲香は言った。
「こすったらごめん」
「いいよ」
篠田は笑いながらも、鼻の下を伸ばしてフロントフェンダーを覗き込むように確認した。車体に草をひっかけているが、それは避けられない。それでも、調べ物はスマートフォンの中で続いており、篠田は時折、得たばかりの知識を呟いていた。
「この橋がかかったのは、戦後だって。だから、しっかりしてるんだな」
スマートフォンの中から知識として吸収したことが、目の前で展開されている。篠田は、橋の手前にあった、屋根のひしゃげた一軒家を振り返った。
「限界集落だな。電波も何とか入るって感じだわ」
橋をまたぐと、雪が左右に退けられた道はやや整えられていたが、細かな石がタイヤの通り道を避けるように薄く伸びていて、その上に乗るとパラパラと巻き上げる音が鳴る。玲香は、篠田の道案内に従ってマジェスタを進め、砂利敷きの空き地に寄せた。ハザードを焚いたとき、篠田が助手席から降りて、大きく伸びをした。玲香も運転席から降りて、集落には不似合いな平たい車体を眺めた。径の大きなホイールも、扁平タイヤも、何もかもがこの景色と相反している。斎藤が最後に後部座席から降りて、迷子になったような不安げな表情で、景色を見回した。雨の跡が黒ずんだ線を残す白い建物は公民館で、その反対側には藪に覆われた学校跡。玲香は、斎藤の視線の先を一緒に追っていたが、篠田の方に向き直った。道路を挟んで、向かい合わせに建つ、二軒の建物。看板はやや掠れているが、右側の建物には『民宿炭谷』とあった。篠田は道路の真ん中に立って、両側の建物を代わる代わる見た後、体ごと左側の建物に向き直った。
「こっちは、コンビニだな」