Frost
集会場全体の空気が泥にはまったように動きを止めた後、再びのろのろと動き出した。萩山は心の中で舌打ちしながら、繕うように淳史と牧子に笑顔を向けた。萩山家にようこそ。都会でドブネズミを相手に、次の日を生きていけるだけの性欲処理を、良心価格で施している。そんな生活の中では大抵、声に出すより手の方が早い。目の前の景色が色を失くしていく前に、何かを言わないといけない。そう思っていると、万世が口をわざとらしく結んでから、ぱっと口を開いて言った。
「叩いちゃダメ」
「そうだね、ごめん」
萩山が首をすくめると、淳史が目を丸くして、彩乃に言った。
「万世が誰かに言って聞かせるなんて、今まであったか?」
彩乃が口角を上げて、大人のように思慮深い笑顔を見せて言った。
「ない」
牧子が万世のおかっぱ頭を撫でて、微笑んだ。のろのろと動いていた空気が元の速度に戻り、どこかで子供の笑い声が上がった。淳史がお猪口を空にすると、牧子と彩乃と万世の三人全員が非難の目を向け、淳史は萩山に言った。
「萩山さん、お子さんはいる?」
「はい。一男一女です」
酒の力もあるのだろうし、不自然さを避けるには年齢まで言うのが、普通だろう。ただ『います』とだけ答える雰囲気ではない。萩山は財布を探る振りをして、肩をすくめた。
「写真は、ないんですけど」
牧子がその言葉に相槌を打とうとしたとき、淳史が入口の方へ顔を向け、その場にいる全員の会話が止まった。まるで、個々の会話の集合体ではなく、ひとつの塊のように。萩山は、他の十数人と同じように、入口の方を向いた。長池が靴を脱ぎ、帽子を取って入ってくるところだった。息子の敏道はおらず、父親ひとりでやや心細そうに見える。長池の目的は萩山で、すり足で静かに歩み寄ると、隣に屈みこんで言った。
「萩山さん、道が通行止になっちまった。部品を取りに行けない」
萩山は思わず、体ごと振り返った。長池はそれが自分の責任であるかのようにかぶりを振った。萩山は、酔いが醒めていくどころか、逆に腰から下が座布団に沈み込んでいくように錯覚し、姿勢を正した。
「雪ですか?」
「雪やね。あれからずっと降ってるから」
会話を聞いていた淳史が首を伸ばすと、炭谷家の面々に向かって手を振った。
「炭谷さん、道が閉まっちゃったって」
炭谷家の集まりは、千尋と父と母の三人だったが、今はもうひとりが増えていて、ややかしこまった雰囲気で、何よりもひとりだけ正座していた。千尋が立ち上がり、長池と萩山のすぐ隣まで来ると、腰を下ろした。さっきはいなかったひとりもついてきて、千尋の隣に静かに座ると、長池に目を向けた。
「神谷さん、悪いね」
神谷と呼ばれた細身の女は、シャツの左胸に名札をつけていて、そこにはフルネームで『神谷清美』と書かれていた。神谷は、萩山と康夫を交互に見て、利発そうな印象を付け足している眼鏡を、少しずり上げた。
「隣の部屋ですよね、神谷です」
萩山は握手をして、名札に小さく書かれた会社名を読んだ。
「記者なんですか?」
「はい。お祭りまでは、ここにいます」
神谷は歯を見せて笑った。長池が咳払いをして、ささやかな『緊急会議』を進めた。
「萩山さん、燃ポン……、いや、燃料ポンプは部品がないと、どうしようもないんよ。どこまで行く予定やったんかな?」
「海側に抜ける予定でしたけど……」
その先は、どうしても言えない。それに、神谷は記者だ。隣の部屋に泊まっているとなると、閉じ込められたのも同然で、何も行動できない。何しろ、取材が終われば神谷はこの地から離れるのだ。萩山兄弟の顔をしっかりと頭に留めて。集落の人間の行動範囲は知れていても、記者は違う。そこまで考えた萩山が小さくため息をついたとき、隣に座る神谷が言った。
「海ってことは、旅行ですか?」
萩山はぎこちない笑顔でうなずきながら、思った。違うよ、このガリ勉眼鏡。隣で寝そうになってるでかいだけのぼんくらを殺すんだよ。愛すべき弟だが、家族の恥なんだ。商品を自ら殺すような店で、誰が働こうなんて思う? 頭の中が、自分の本来の住処と今置かれた状況の間を、発作のように行き来している。
「明日、現場を見てくるよ。取りに行けなかったら、そのとき考えよう」
長池はそう言って締めくくると、立ち上がった。靴を履いて帽子をかぶり、逆再生のように入口のドアを閉めたとき、待ち構えていたように、さっきまで明らかに止まっていた空気が動き出した。萩山は、長池が現れたときの空気の変化を思い出していた。申し合わせたように全員が、一斉に話すのをやめた。よそ者が不肖の弟の頭を叩いたときですら、そうはならなかった。萩山は、誰にともなく言った。
「長池さんには、助けられました。通りすがりなのに、わざわざ停めて、様子を見てくれたんですから」
どの道、通行止になる前に山を抜けることは叶わなかっただろう。だとしたら、この待遇は考えうる限り、最高のものだ。
最後の一杯が終わり、後片付けが始まったが、手伝おうとする萩山を千尋が止めて、言った。
「お客さまなんですから、お気になさらず。戻りましょう」
野瀬一家も特別扱いされているように、上着を着こむと家族全員で出て行った。
「野瀬は、この食事を用意する係。だから、片付けはしないんです。合理的でしょう」
千尋はそう言って笑った。『合理的』という単語は少し前にも聞いた気がしたが、もう思い出せないままに、萩山は愛想笑いを返した。同じ集落に住む人間だから、言葉遣いも似てくるのかもしれない。上着を羽織り、白く染まった集落の中、康夫と神谷の三人で千尋の後ろをついて歩いていると、どこかで現実から道を外れて、妙な夢に入り込んでしまったように感じる。照明柱が数本、申し訳程度に照らすだけで、それ以外の景色は漆黒だった。自分たちが歩く場所だけにスポットライトが当たっているような感覚で、それが余計に現実感を削いでいた。
「た、たのしかった」
康夫が出し抜けに言い、千尋が一瞬振り返ると、嬉しそうに笑顔を見せた。萩山は思わず、康夫の横顔を見た。そんな言葉を聞くのは、何年振りだろうか。十年以上経っている可能性もある。康夫は、人生のほとんどを、霧のかかった頭で理解してきた。何かを楽しいと感じても、それを直接表現することは少なかったように思える。
「よかったな」
萩山が言ったとき、近くで鳴き声がした。康夫が首を回しながら言った。
「ねこ?」
萩山は前を向いたままうなずいた。可愛いと思ったら、次に康夫が考えることは、捕まえることだ。そして、暴れるのを押さえつけている内に、首の骨を折って殺してしまうだろう。萩山自身は、猫の抜け目ない雰囲気が苦手で、実際に対面したいとは思わなかった。それを察したように、神谷が言った。
「猫は苦手ですか?」
「どうもね、人間より賢そうで」
萩山が言うと、神谷は、眼鏡の奥で大きく開かれた目を向けて笑い、民宿の隣の空き地に停められた車を指差した。最新型のハイラックスサーフで、黒の車体はほぼ雪で覆われていた。フロントバンパーには、大きなフォグランプが取り付けられている。
「道さえ開いてれば、町まで送れるんですけどね」
「これで来たんですか?」