Frost
玲香は篠田の隣に立って、野瀬商店の外観を眺めた。屋号や造り自体は古くても、ガラスは綺麗に磨かれているし、手入れが行き届いている。民宿炭谷も現役のようで、玄関の扉には補修した跡があり、郵便受けは鮮やかな赤色に塗り直されていた。篠田が口笛を吹き始め、廃墟にブロックを投げ込む様子を思い出した玲香は、思わずその腕を掴んだ。篠田は笑いながら、首を横に振った。
「何もしないって。ちょっと、買い物してみよーか」
アルミサッシの引き戸は音もなく滑り、店の中は静かだった。レジの前で本を読んでいた店主が顔を上げて、笑顔を見せた。
「いらっしゃい」
玲香と篠田はほぼ同時に頭を下げ、店内を見て回った。コンビニに置かれているような最新のお菓子もあったが、ほとんどは生活に根差した食料品だった。ぐるりと一周した玲香がチョコレートをレジに置き、隣から篠田が雑誌を差し出した。会計を済ませたところで、野瀬彩乃は二人に言った。
「旅行ですか?」
「はい、手前の空き地に停めちゃったんですけど、大丈夫っすかね?」
篠田が代わりに答えた。その目がまた上下に動いて、レジのカウンターで隠されている範囲までを網羅するように、彩乃の『採点』を始める。玲香が小さく咳払いをしたとき、彩乃は言った。
「大丈夫ですよ、あれが駐車場みたいなものです」
その笑顔は、表情だけ見ると子供のように屈託がないが、年上には違いない。玲香は、彩乃の身のこなしを見ながら思った。限界集落と言えば、最小限の動きで全ての行動をこなす老婆のイメージだったが、この店主は全く当てはまらないどころか、横顔をほとんど隠すような髪型を差し引いても若々しい。篠田は、買ったばかりの雑誌を丸めては広げてを繰り返していたが、窓の外に目を向けると、引き戸ががらりと開いて客が入ってくるのを見ながら、言った。
「お向かいは、民宿すか? あ、すみません。お店の名前から勝手に想像したんすけど、野瀬さんで合ってます?」
「はい、合ってます。わたしは彩乃で、今入ってきたのが妹の万世」
玲香は、万世と目が合ったとき、思わず息を呑んだ。彩乃と髪型や化粧は違っても、二重の大きな目は精巧なコピーのように瓜二つだった。
「双子なんですよ。学校ではよく間違われました」
万世は、普段より賑やかな店内に気圧されたように、ぎこちない笑顔を浮かべると、レジに向き直った。
「こんにちは、旅行ですか?」
「狭い集落だから、みんな聞くんですよ。ごめんなさい」
彩乃が笑い、後に続くように万世が同じ表情を見せた。似ていても、万世にはどこか底が抜けているような明るさがあり、それを見抜いたように篠田が言った。
「何度でも聞いてください。すみません、急に訪れちゃって。だって今、大変じゃないすか? ちゃんと距離を取らないと」
「あはは、構いませんよ」
万世が口元に手を当てながら微笑んだとき、篠田は彩乃と万世がひとりの人間であるかのように、その顔を交互に見ながら言った。
「おれ、篠田っていいます。集落の歴史とかに興味があって、結構あちこち回ってるんですよ。で、彼女は友達の萩山」
玲香は反射的に頭を下げた。友達という表現はくすぐったいが、篠田の口からあっさりと飛び出るとは思っていなかった。『ボスの妹』という立場よりは断然いい。篠田はふと思い出したように、付け加えた。
「外で待ってるのは、斎藤と言います」
玲香としては、特に待たせているつもりはなかった。篠田と自分との関係性に入り込むのは、容易ではない。自分が逆の立場なら、初めから努力を放棄するだろう。玲香は向かいの建物を眺めた。ちょうどシルバーのアルトが民宿炭谷の前を一旦通り過ぎて、建物の隣にがらんと空いたスペースに車庫入れしたところだった。エンジン音に篠田と玲香の注意が向く中、彩乃が言った。
「歴史を調べてらっしゃるなら、公民館に色々と置いてありますよ」
アルトから降りてきた女の人が民宿の扉を開いたとき、万世が引き戸を開けて言った。
「ちーちゃん、今時間ある?」
振り返ると、女の人は前髪を細い指で額からどけた。店の中に入ってくると、彩乃と万世の顔を一瞬だけ見て、篠田と玲香に微笑んだ。
「時間、ありますよ。旅行ですか?」
篠田と玲香が顔を見合わせて笑い、万世が公民館を指差した。
「集落の歴史を調べてるんだって。ちょっと案内したげてよ。資料とか、カビてないよね?」
「多分。開くときは息止めたほうがいいかも」
千尋はそう言って笑ったが、表情をすぐに切り替えた。
「図書館みたいなものですから、朝から夕方までなら、いつでも見にいらしてください」
言いながら、千尋は玲香と篠田に笑顔を向けた。二人が応じたとき、斎藤が引き戸を開けた。
「すみません、景色に見とれてました」
そのたどたどしい言い訳に、彩乃と万世が笑った。玲香も同じように笑おうとしたが、初対面の人間を前にそこまで打ち解けた笑顔を作る自信はなく、愛想笑いにとどめた。篠田は言った。
「おれ、篠田っていいます。この二人は、萩山と斎藤です」
判で押したような挨拶。玲香が口角を上げて笑いながら頭を下げると、斎藤が部活の中学生のように深々とお辞儀をした。千尋は言った。
「私は、炭谷千尋です。向かいの民宿をやっています。では、行きましょうか」
停めたばかりのアルトに向かって歩きながら、千尋は、後ろを歩く三人に向けて言った。
「この時期にお客さんがいらっしゃるのは、珍しいです。時々、学校跡を見に来る方はいますが」
「正月休みが長いんですよ。これを逃すと、また忙しくなっちゃうんで」
篠田はそう言って、千尋の背中に愛想笑いを返した。玲香は、小さくため息をつこうとしたが、それは呆れたような笑いに変わった。篠田の店は、正月の間は副店長が回している。時短営業だから、開けているだけ電気代がかさむだけで、大した売り上げは見込めない。玲香自身も、十一日まで休みという大企業ならではの休日を用意されていた。それにしても。玲香は、篠田の横顔を見ながら思った。すでに、この集落に出入りして長い人みたいだ。斎藤はまだ、上級生だけの集まりにひとりだけ放り込まれた小学生のようにおどおどしていて、その目は忙しなく景色と地面を行ったり来たりしていた。
千尋がアルトの運転席に乗り込んだとき、一瞬だけ三人組に戻った間を利用して、玲香は篠田の肘をつついた。
「ちょっと、これどうなるの?」
篠田は自分のやっていることを完全に理解し、自覚しているように口角を上げた。
「打ち解けたろ? これなら、何か聞けるかもよ。田舎だし、この界隈で起きたことなら何でも覚えてるはずだ」
アルトが停められたスペースの隣には、ブルーシートが雑にかけられた車が置かれていて、完全に空気の抜けたタイヤが見えた。斎藤が言った。
「ハイラックスですね、はい。サーフだと思います」
紺色のハイラックスは、風で揺れるビニールシートの下で傾いたまま、安置されていた。
「斎藤ちゃん、カーマニア? 詳しいっすよね」
「いえ、それほどでも。まあ、多少知ってるほうかとは思いますが。いや、上には上がいるからなあ」