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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Frost

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 篠田は笑った。それは、まったくの逆効果だったが、玲香は篠田の手によって開けられたドアから、中に顔を突っ込んだ。マスク越しでも黴臭い。廃墟だが乱雑ではなく、澱んだ空気の中にいろいろな備品や、客用のソファが置いてある。まるである日、突然営業をやめたようだった。篠田はまだ口笛を吹いていて、器物破損と不法侵入にBGMを加え続けている。玲香は、事務所にこもった空気を割るように歩きながら、一度篠田のほうを振り返った。飄々としていて、優しい部類に入ると思う。でも、一度だけ見た、その忘れがたい姿。酔って従業員のひとりに暴力をふるった男が土下座するのをじっと見下ろす、あの猛禽類のように表情のない目。あれが篠田の本来の姿なのだと、気持ちがぐらつくたびに思い出すようにしている。
 篠田は、レジの近くの事務机の引き出しを開けて、玲香を呼んだ。
「伝票つうか、日誌みたいなのあるよ。平成八年」
 バインダーは年ごとに分けられていて、一番手前に『八年』と書かれたものがあった。それを机の上に広げると、ほとんどが空ページで、篠田は笑った。
「真っ白じゃん、形から入るタイプだな」
 玲香は、手前からページを開いた。一月二日から店を開けていたらしく、灯油の納品先がいくつか書かれていた。斎藤もいつの間にか店内にいて、バインダーを覗き込んでいた。玲香は言った。
「一月十一日で途切れてる」
 斎藤が顔をしかめ、記憶をほじりだすように口を真一文字に閉じた。
「三が日は過ぎてました。金曜日だったと思います」
 篠田はスマートフォンで当時のカレンダーを調べて、言った。
「金曜は、五日だね」
 玲香は五日のページを開いた。昼過ぎに、灯油を『ドライブイン安川』に運んでいる。さっき、ご飯を食べたところだ。その下には『カロバン 故しょう けん引 燃ポン』と書かれていた。篠田と玲香がそれを声に出して、その響きの間抜けさに笑っていると、額に浮かんだ汗をぬぐいながら、斎藤が言った。
「会社の車に乗っていったはずです。あれは確か、カローラのバンでした」
 あれだけ騒がしかった空気が、しんと冷えた。篠田は言った。
「つまり、ここに寄ったってことっすか?」
 玲香は、まだ確信を持っていなかった。篠田と顔を見合わせていると、隣で斎藤が言った。
「燃ポンってのは、燃料ポンプのことだと思います、はい」
 篠田は機械に弱い。燃ポンが燃料ポンプの略であろうと、ふたつの単語がイコールで繋がっただけで、自分のマジェスタにも同じ装置が付いているという風には想像できずに、言った。
「それ、部品すか?」
「ガソリンを送り込むモーターです、これがダメになると、ガス欠みたいになって走らなくなるんです。寒い日だったからなあ、あるかぁ。ありうるなあ」
 手が届かない位置にある目覚まし時計を探るような頼りなさで、斎藤は呟き続けた。その様子に、篠田が笑い出しそうになるのを堪えていることに気づいた玲香は、軽く肘でつついた。
「故障して、一度はここに運ばれたってことですよね?」
「おそらくは、はい」
 斎藤はそう言って、ペン立ての隣に置かれた埃だらけの電話帳をめくった。篠田は、壁にかけられた住宅地図を眺めた。印は色が二種類あり、黒が警察や消防、公園や宿泊施設といった観光客向けの施設は、赤に塗り分けられていた。
「近くに民宿あるけど」
 篠田が言い、玲香は顔を上げて、住宅地図に目を向けた。川を挟んだ向かい側の丸印は『民宿炭谷』。集落の真ん中にあった。斎藤は、電話帳の中から同じ名前の連絡先を見つけて、言った。
「電話番号は、こっちに載ってます」
 玲香は、丁寧な字で書かれた番号を見つめた。篠田はスマートフォンを取り出して、ロック画面を解除するところまで操作すると、玲香と斎藤の顔を交互に見た。
「かけてみる?」
 玲香が首を傾げた。斎藤は、外を頻繁に通る車の音が気になり始めたように、汗を滲ませながら顔を上げた。
「あ、あの。あまり長居しないほうがいいと思います」
 篠田は、ブロックでガラスを割ったこと自体が遠い昔で、自分の家のように寛いだ表情をしたまま、眉をひょいと上げた。
「こんなんで、捕まんねえでしょ。金目のものとか、ある?」
 篠田が言ったとき、玲香はその腕を軽く引いた。この、店の中の空気。まるで、二十五年前に突然空気が凍り付き、そのまま人だけが消え失せたようだ。篠田は、金目のものはないと思っているに違いないが、レジを開ければ当時のお金がそっくりそのまま残っていそうにも見える。
「篠ちゃん、写メだけ撮って出よう」
 篠田はスマートフォンで地図や日誌の写真を数枚撮り、民宿の電話番号をキーで入力して、一瞬鳴らすと履歴に残した。その手の速さは、普通の人間の数倍のスピードで一日を過ごす『店長』にふさわしい。玲香がその手際の良さに感心しながら背中を押すと、篠田は渋々外に出た。斎藤も後に続き、マジェスタに乗り込んだとき、篠田はハンドルを片手で掴んだまま、写真を見返した。
「この、八に頭って書くやつ、なんて読むんだろ」
「やつがしらかな? はちあたまじゃないよね。どんなの?」
 玲香が言うと、篠田は斎藤にも見えるよう、スマートフォンを掲げた。集落の地図で、社の印が書かれた場所の隣に、『八頭様』と書かれていた。
「村長とか? 敬称ついてるし、偉いんじゃない?」
 玲香が言うと、篠田はぐるりと首を回して、後部座席を振り返った。
「斎藤ちゃん、運転できます?」
「は? わ、私ですか?」
 斎藤は、広くて深いシートの上で居住まいを正し、レザーが擦れて甲高い音を鳴らした。
「うん、ちょっと調べ物したいんだけど。無理っすかね?」
「ちょっと、自信がないですね……」
 斎藤が首をすくめたとき、玲香が言った。
「わたしが運転するよ」
 運転席に座り、玲香が電動のシートを前にずらせていると、助手席で篠田が首を伸ばしながら笑った。
「おー、すごい前に行くねえ」
「こんなに脚長い? 見栄?」
 玲香は笑いながら斎藤の方を一瞬だけ振り返ったが、朽ちたガソリンスタンドの外観を窓越しに眺めていて、その口はまっすぐに結ばれていた。玲香は、篠田に視線を戻すと言った。
「で、どうしよ。峠を下りきったらいいかな?」
「いや、ちょっとさ。この民宿に寄ってみない? 地名調べてる感じだと、この炭谷ってのは、かなり歴史があるらしいよ」
 篠田は、スマートフォンの画面を玲香の方へ向けた。民俗学のウェブサイトで、一九八八年の集落を写したらしい、色あせた画像が表示されている。お面のようなものを片手に持った少女が、和やかな表情の大人に囲まれて微笑んでいて、その後ろに建つ建物には『民宿炭谷』と書かれていた。玲香はゆっくりとガソリンスタンドからマジェスタを出して、アクセルを踏み込んだ。
「ナビお願いします」
「あいよ」
 篠田はそう言ったが、地図アプリに目的地を登録すると、すぐに調べ物に戻った。その様子を見ながら、玲香は笑った。
「篠ちゃん、勉強家だっけ?」
「おれ、歴史好きなんだよ、こういうのは特に。名前も、都会に住んでる人間と違って、由来があったりするんだ。さっきの八頭だって、絶対なんかあるよ」
作品名:Frost 作家名:オオサカタロウ