Frost
康夫は、去年の年末に人を殺した。被害者は十八歳の女で、まだ高校生だった。家の人間で、この事実を知っているのは、発見者の自分だけ。家業に火の粉が飛ばないよう、入念に計画を立てた。それでも、罪は消えない。萩山は、待避所から見えた勢いよく流れる川の水を思い浮かべた。萩山家は、堅気の家ではない。風俗店と連れ込み宿のチェーンを経営していて、時には暴力に頼ることもある。被害者は、面接に来たひとりだった。萩山家にとっては、許されない罪だ。殺し自体が悪いわけではない。風俗店を経営している人間が『商品』を殺したら、そこには誰も寄り付かなくなる。少なくとも萩山自身は、そう教わった。
このドライブの目的は、康夫を殺すことだ。道具は、カローラバンの中に置いてあるが、法に触れる凶器はないから、長池が見たとしても、特に怪しむ要素はないだろう。萩山は、冷めかけたお茶にようやく口を付けた康夫と目を合わせて、笑った。目で見たことの半分も理解できないような人生から解放してやるとしたら、それができるのは、兄である自分以外にいない。もちろん、証拠を上書きして康夫から嫌疑が逸れるように、できることは全てやったし、成功した自信もある。しかし、このまま放っておけば、いずれ康夫は自分で話すだろう。それこそ、虫を踏みつけて殺してしまったぐらいの軽さで。そして、その両隣に座る二人の少女には、絶対に手を出させてはならない。千尋に対しても同じだ。とにかく、華奢で簡単に折れそうなものは、康夫に近づけてはならない。曲げて遊んでいる内に、本当に折ってしまう。野瀬姉妹がお菓子を諦めて立ち上がり、萩山は小さく息をついた。
「けーち!」
お菓子をくれなかったことにすねたように、万世が言った。彩乃がその手をぐいと引いて、出て行くときに振り返ると、頭をぺこりと下げた。二回やったように見えたのは、妹の分も担当したのかもしれない。萩山は小さく手を上げて応じた。それが合図になったように、ざわついていた空気がゆっくりと元に戻っていった。千尋が呆れたように言った。
「すみません、騒がしくて」
「いえいえ」
萩山は愛想笑いを返し、視線を泳がせた。黒電話の隣にあの台帳が置いてあって、ふと、その中身を確認したくなった。さっき、宿泊日を続けて埋めたときに気づいたこと。ひとり前の客は、日付が十一月になっていた。二泊三日の予定だったようで、出発した日も書かれていた。
だとしたら、今、隣の部屋に泊まっている人間は、記録されていないことになる。
二〇二一年 一月
二十五年前、萩山玲香は四歳だった。
幼少時代の記憶の中で、間違いようのない事実。父はあの日、出て行ったきり帰ってこなかった。記憶に刻まれている理由は、はっきりしている。布団にくるまって横向きになっている自分の頭にぽんと手が置かれて、ずれて飛び出していた足の上を覆うように、布団がかけ直された。玄関のドアが開いたときのかすかな隙間風が入れ替わりに入ってきた後、すぐに止まった。夜だったが、まだ起きていた。機嫌を悪くするような何かがあって、それが何だったかは覚えていないが、怒っていたのは確かだった。遊んでもらえるはずが、用事で出ることになったとか、そんな些細なことだったと、今は勝手に想像している。萩山家は、振り返れば『特殊』な家だった。そして、自分だけが切り離されて育った。大学を出て、普通の企業に就職して、企業向けオフィス用品の営業をやっている、というのは、普通の人生だ。特殊な部分を、父の代わりに経営者になった母の明日奈から受け継いだのは、二歳年上の兄の修也だった。
玲香は手を洗って、ポケットから取り出した消毒液のスプレーを手に振りかけた。修也を表わすキーワードは二つ。風船ガムのような下品な色のジャージと金歯。取り巻きの中でも、かつての父を知る年配の黒服たちは、父にそっくりだと言って機嫌を取る。修也は嬉しそうな顔をするが、あんな姿と共通点があるとは思いたくない。優先順位を下げたいのに、中々退かないその表情を頭から振り払いながら、玲香はトイレから駐車場までの道を歩いた。例年にない寒さで、お昼どきだが道の駅も人気はない。トラックが数台いるだけだ。
萩山家のメインの家業は、ホテルのチェーン。五年前ぐらいに高級路線に戻って、最近は東南アジアのリゾートを模したブランドを展開している。ホテル経営とデザインを基本からきっちりと学んだ修也は、目がいい。大学に入るころは、歯は真っ白だったし、ジャージにも大学名が入っていた。
萩山家が持っているもうひとつの事業は、店舗型の風俗店チェーン。ありとあらゆる好みに答えられるよう、看護婦からキャビンアテンダント、普通の会社員のコスプレをしている店すらある。最初は採算の取れない店舗をヘルプで任されただけだったが、その店だけ売り上げが突然伸びて、修也は風俗店経営のエースになった。今はアストンマーティンを乗り回して、各店長の報告をピンク色のスマートフォンで聞き取っている。
ひとつだけ感謝しているのは、いろいろと耳に入ってくるのは避けられないにしても、妹である自分を萩山家の家業から徹底して引き離したのが、修也だということ。何らかの形で家業にかかわる覚悟をしていたから、大学に入る前は、十八歳という『何でもありの年齢』を死刑宣告のように考えていた。だから、その恩返しではないけど、学費も含めてお金のことは学生時代からずっと、自分で賄っている。いびつな土台の上に、できるだけ丁寧にまっすぐ建てられた銅像。それが、わたしを表わすのに最も近い表現。
自分に言い聞かせながら、玲香は凍った水たまりを避けて、車まで戻った。だからこそ、これが修也に見つかったら怒られるだろうな。後部座席のドアを開ける手には、指同士が窮屈そうなぐらいに大きな指輪がはまっている。
「おかえりっす、トイレ、どーだった?」
篠田英介は玲香と同い年で、ひょろりと背が高く、骨格に最小限生きていけるだけの筋肉を張り付けたような体格の男だ。
「篠ちゃん。そんな質問して、どうするの?」
「いや、混んでなかったかなって」