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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Frost

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 その言葉をかき消すように、千尋は黒い影に頭を深々と下げた。
「どうぞ、おかえりください」
 娘である千尋の晴れ舞台を支えるように、達夫と和美が康夫の両手両足に縄を巻き付け、反対側を柱にくくりつけた。千尋は萩山の隣に屈みこむと、背中に手を置いた。
「逃げなくても、よかったんですよ」
「おれが車を盗むのを、待ってたんだな。出なければならない事情があるって、あんたは初めから分かってたんだろう」
 萩山が言うと、千尋は、はちがしら様との間を取り持つように顔を上げて、視線を走らせた。萩山は、その横顔を見ながら思った。このままこの『儀式』に付き合えば、どこかで隙が生まれるかもしれない。康夫は当てにならないだろう。腕が折れた時点で、そのことで頭がいっぱいになっているはずだ。萩山は、小声で千尋に言った。
「なあ、康夫は人を殺したんだ」
 千尋が萩山の方を向き、最初に宿で出迎えてくれた時のような、和やかな表情を浮かべた。
「そうですか、あなたは逃亡に手を貸したと」
 萩山は首を横に振った。この旅の、本来の目的。
「違う、おれがあいつと一緒に山を越えたのは、山の中で殺すためだ」
「そんな物騒なことは、してはいけませんよ」
 千尋の笑い声が耳から入り込むのを避けるように、萩山は顔を引いた。
「聞いてくれ。ここからが大事なんだ。あんたらの見立て通り、おれは堅気じゃない。康夫のやったことは、斎藤ってやつが身代わりで何年か食らうことになってる。おれが段取りしないと、そいつは相当な刑を食らうかもしれないんだ」
「それで、外と連絡を取ろうとされていたんですか」
 千尋は納得したように小さく息をつくと、立ち上がった。萩山は続けた。
「おれは、そいつに出頭をやめさせないといけない。頼むから、一本電話をかけさせてくれ」
 萩山の言葉は流れるように耳に入ってきたが、千尋は答えることなく、黒い影に視線を向けた。二十五年前に捕らえられた、名前も知らない男。自分が生まれたときには本殿にいて、小学生に上がる頃までは生きていた。こっそり忍び込んで、その胸が上下する様子を眺めていたことを思い出し、千尋は笑った。父曰く、かなりの長い時間、命乞いをしていたという。答えを待つ萩山の視線に気づくと、千尋は立ち上がって神谷に目で合図を送った。
「では」
 康夫を押さえる和美の手元で、細いワイヤー型のノコギリが光った。それがするりと腕に巻き付いたとき、神谷が蝋燭の火を吹き消した。萩山が叫ぶよりも前に、外で猫のお面をつけた女達が一斉に鳴き声を上げ、康夫の内臓を全て吐き出すような悲鳴が、それをかき消した。夜が完全に更けて、康夫の両手両足が完全に切断されたとき、それまで集落に響き渡っていた鳴き声が一斉に止んだ。
  
   
二〇二一年 一月
     
 どこかから鳴き声が聞こえる。篠田は神社に続く坂道を見上げた。実際には、一匹も見なかった。斎藤から届いた返信は、その内容は篠田を神社に向かわせるのに十分なものだった。
『社の中を見に来てください、大変なことになってます』
 斎藤は何もかも、焦った頭で解釈する。そうやって生きてきたのだから、少し前のめりな姿勢は全ての行動に受け継がれている。しかし、その文面から篠田はトレードマークの『焦り』を感じなかった。焦っている余裕がないというのは矛盾した言葉だが、それが斎藤の返信から唯一感じ取れたことだった。
「斎藤ちゃん、トラブル引き寄せまくりだな……」
 所々凍っている水たまりを器用に避けながら早足で歩き、篠田は一度振り返った。玲香は宿にひとり。その状態は短い方がいいと、直感が伝えていた。今までずっと、玲香が接する現実世界との緩衝材になってきたつもりだった。今回のこともそうだが、ひとりで受け止めさせたくはない。仕事柄、綺麗な世界を見せることはできない。しかし、汚い部分を覆い隠したり、少しだけ表現を和らげて伝えるぐらいなら、自分にもできる。篠田は深呼吸をして、坂を上がりきった。しんと冷えた空気の中、本殿が聳えている。
「斎藤ちゃーん、います?」
 大きな声で呼びかけると、木の間に隠れていた鳥が数羽飛び立った。その羽音が聞こえなくなったとき、ずっと聞こえていた鳴き声が近くなって、篠田は笑った。
「あー神社の猫ね、はいはい」
 ひとり言を言いながら本殿の角を回り込んだとき、待ち構えていたように目の前に立つ万世の口が大きく開き、か細い猫のような声が漏れた。篠田は後ろに飛びのいて尻餅をついた。
「万世さん! ビビったよマジで」
 立ち上がって体から砂利を払ったとき、ふらりと隣に立った斎藤が言った。
「篠田さん」
 呼ばれるままに篠田が顔を向けると、少し体を引いた斎藤は言った。
「あの、すみませんけど、これ」
 そう言った斎藤はシャベルを振りかぶり、全身の力を込めて横向きに薙いだ。先端が篠田の側頭部に突き刺さり、真横に倒れた篠田に引きずられて、斎藤は前のめりに倒れた。まだ空気が揺れ動く中、万世と彩乃がその傍について、体をゆっくり引き起こした。万世は、シャベルが頭に突き刺さったまま死んだ篠田の顔を見下ろしながら、呟いた。
「火つけ」
 その横顔を見て、彩乃は二十五年前の騒ぎを思い出していた。長池親子が死んで、次の二十五年が経つころにはどうなるのだろうと、子供から大人になるまでの間ずっと恐れていた。長池家は外との接点で、罪人を引き込む役目を果たしていた。親切で、困った人間は放っておけない性格だった。誰に対しても優しくしていれば、いずれ事情を抱えた人間に行き当たる。
 それが、誰も呼び込むことなく、向こうからやって来たのだ。万世の紅潮した頬を見ながら、彩乃は本殿を見上げた。前は千尋が立派に役割をこなした。二人とも子供だったから、その様子は見せてもらえなかった。しかし、萩山兄弟の弟を仕立てるのに十時間かかったという『笑い話』は、父からよく聞いた。公民館で過ごした夜のことは、おぼろげに記憶に残っている。萩山の弟は大柄で、万世が懐いていた。
「斎藤さん、本殿の隣に休憩所があるんで。そこで夜まで待っていてもらえますか。お昼はうちから何か持っていきます」
 斎藤は彩乃に促されるままに、木造の小屋に上がった。中は畳敷きで広く、誰かがを招くことが最初から決まっていたように、ストーブの電熱線が赤く光っていた。斎藤が座布団に腰を落ち着けて、案内を終えた彩乃が外に出たとき、万世は静かに錠前を通して鍵をかけた。かつて、お面をつけるのも忘れてはしゃいでいた少女だったときの、底抜けの明るさ。それを取り戻したように、呟いた。
「ちょろいな」
 二人は、本殿の裏まで篠田の死体を引きずると、かつて長池家の親子に対してやったように、その体を雪で覆っていった。
    
作品名:Frost 作家名:オオサカタロウ