Frost
万世の傍に、松明を持った淳史と牧子が立ち、紅潮した顔を見合わせたが、すぐにひとり足りないことに気づいて、言った。
「彩乃は?」
「怪我した」
万世は地面でまばらに固まった雪を蹴って割りながら、不満げに言った。淳史はぞろぞろと集まってくる村の人間を振り返ると、言った。
「では、行きましょうか」
康夫は、人の輪が少しずつ小さくなっていく結び目のように密度を増していく様子を見ながら、運転席でハンドルに突っ伏す萩山の体を揺すった。
「くる」
左腕が思ったように動かず、肘から先が燃えるように熱を帯びていた。康夫は無事な右手でシフトレバーやハンドルに触って、どうにか車を動かそうとした。運転席にだらしなくもたれかかった萩山の体が少しだけ動き、うめき声が漏れた。
「逃げろ……」
康夫はその言葉を聞き、反射的にドアを開けて雪の中へ落ちるように飛び出した。左腕の熱が激痛にすり変わって頭の中で爆発し、かばうように仰向けに転がったとき、結び目が固く閉じ切ったように、人の輪がその顔を見下ろした。真ん中にいる淳史が、言った。
「縁のない中、よくお越しくださいました」
人の輪がさっと空いて、民宿から『炭谷』と書かれた大きな手押し車を持ってやってきた達夫と和美が前に出ると、一緒についてきた村人と数人がかりで康夫の体を捕まえた。肘の激痛に気を取られている内に足を掬われ、康夫は手押し車の中に頭から落とされ、上から網で動きを封じられた。もう一台が現れると、運転席から萩山を引きずり出し、意識が朦朧とした状態のまま手押し車に乗せた。淳史は神社へ向かう長い上りの坂道を見上げると、村人たちの背中を押した。
萩山は、右足に残るブレーキペダルの感覚を頭に呼び起こした。それが自分と現実を結ぶ唯一の接点のように、足の指に力を込めた。頭が痺れたような感覚が強くなり、いびつに血が巡っているように感じる。右手の位置が分かり、左手だけが千切れそうなぐらいに冷たく、金属に触れているからだということが、感触で分かった。そして、それを頼りに、萩山は目を開けた。
真っ黒に澄んだ空を星が埋め尽くしていて、それは無数の抜け穴のように見えた。いくらだって、逃げ道はあった。逃げられなかったのは、自分でそうすることを選ばなかったからだ。勝手に頭の中で作り上げられていく考えと戦う気は、到底起こらなかった。ヤスに逃げろと言った。思い出すのと同時に、突然頭の中が警告を発するように澄み渡り、仰向けに運ばれているということを全身が理解した。体を起こそうとしたとき、淳史が覗き込むように顔を近づけて、言った。
「おっ、起きたねえ。もうすぐですよ」
境内はしんと静まり返っていた。鳥居を囲むように油が撒かれていて、村人のひとりが振る懐中電灯の光を跳ね返している。萩山は手押し車から降ろされる瞬間に逃げ出すことを考えたが、もう一台の手押し車に康夫が乗せられていることに気づいて、考えを改めた。自分が先に逃げれば、康夫は自力で逃げ出せなくなる。頭の中に存在する本能がそう結論づけた後、社会生活で培ってきた知恵が問いかけた。そもそも、殺そうとしてここに来たのではなかったか。二人がここで終わりを迎えたら、修也と玲香はどうなる? 萩山はその問いに対して答えるように、手押し車の中で体を強く捩った。体重が片方に寄ったが、左手の自由が利かなかった。萩山は左手首にロープが巻かれていることに気づいて、淳史に言った。
「おい、何をするんだよ」
ほとんどのことをやられた後だったが、それ以外の質問は浮かばなかった。淳史の代わりに、牧子が人差し指を自分の唇に当てた。
「お静かにお願いします」
猫のお面をかぶった女達が足を止め、万世もその中でわざとらしく気をつけの姿勢を取った。萩山はその中に、千尋の姿を探した。お面をかぶっていて、立ち姿だけでは区別がつかない。
「千尋さん!」
思わず声に出すと、万世の二人隣でお面を外した千尋が、言った。
「はい」
「あんた、どういうつもりだよ!」
千尋が始めたことではないというのは理解していたが、最初に部屋を貸してくれた人間だったからこそ、今の状況を説明してもらうには、最も適任に思えた。千尋はそれを先回りするように、口を開いた。
「今年は二十五年に一度の、本祭なんですよ」
「あんたらがやってるのは、犯罪だぞ」
萩山が言うと、千尋は周りの人間と顔を見合わせると、笑った。答えを得られることがないまま静まり返り、萩山は続けた。
「これが本祭なのか。毎年取材に来てるあの子は、どうするつもりなんだ」
外の世界との接点。最後の頼みの綱。萩山はよりによって、その足であるハイラックスを奪ったことに気づいたが、神谷が自分の足で抜け出しているよう祈った。ここには前後左右、どこにも逃げ場はない。それを証明するように背後からも足音が聞こえてきて、真後ろで止まった。萩山が前を向いたままでいると、千尋は言った。
「炭谷の由来を、お話させていただきましたよね。仕事が名前になったと」
萩山は、千尋の視線を追いかけるように振り返った。白装束に身を包んだ女が真後ろに立っていて、歯を見せながら笑った。萩山が口を開くよりも前に、その笑顔から言葉が飛び出した。
「社を守る人間は、神谷」
その名前を聞いた人間全員が同じ空気を共有するように、息を呑んだのが分かった。神谷は前髪を額からそっと払い退けると、言った。
「外の仕事があるので、年に一回しか帰ってきませんが。ここの主は、私なんですよ」
萩山は、観念したように力を抜いた。境内の中にぞろぞろと人が入り込み、本祭が始まった。神谷が本殿に入ると、人の気配が次々に消えていき、手押し車に乗せられた萩山兄弟が運ばれると、扉が閉じられた。淳史は万世の手を取り、牧子と一緒に坂道を下り始めた。
「えー、見たい」
万世が納得できない様子で言うと、牧子が上品に笑った。
「お姉ちゃんになってからね」
しんと静まり返った本殿の中で、千尋が宙に向かって言った。
「長きに渡り、ご苦労様でした。どうか、おかえりください」
初めて任される大役に、声が震えた。自分の口から発した言葉が、集落の歴史の一部になろうとしている。神谷が本殿の奥に置かれた仕切りをどけると、左右に立てられた蝋燭に火を点けた。萩山は、手押し車を押していた村人に組み伏せられたまま顔を上げ、蝋燭が照らす丸くて黒い影を見つめた。目が慣れてくるにつれて、あちこちがいびつに張り出していて、その先端は縫いつけられたように皮が突っ張っていた。
「はちがしら……」
萩山は思わずつぶやいた。あちこちがでこぼこになっていて、八つ頭があるように見える。頭の中で結論が導き出されていたが、理性が受け入れることをまだ拒否していた。千尋が振り返ると、言った。
「縁のない中、よくお越しくださいました」
黒い影はほとんど蝋化していたが、その顔は苦悶に満ちていた。
「生贄にするつもりか」
萩山が呟くと、神谷が首を横に振った。
「そんなかわいそうなことはしませんよ。あなたの弟は、神になるんです」
この集落の神様は、身代わりに罪を背負っている。八つ裂きにされることで。萩山は言った。
「やめてくれ」