Frost
テーブルがどけられて、布団が二つ並ぶ様子を眺めていた萩山は、ふと思いついたことを言った。
「千尋さん、いってらっしゃいませは言うけど、おかえりなさいませって、言わないよね」
シーツにかかった手が止まった。千尋は振り返ると、笑った。
「それは、禁句なんです。はちがしら様を帰すときに使う言葉なんですよ」
その顔は、いつもより化粧気がなく、少し疲れて見えた。萩山は愛想笑いを浮かべた。
「あ、帰ってくれって意味なんですか? どこに?」
「どこって」
シーツから手が離れ、千尋は口元を押さえながら笑った。
「地獄ですよ」
千尋が階段を下りていき、二人きりに戻った。萩山は日が暮れていく様子を眺めながら、康夫に言った。
「九時ぐらいだ。おれが起こすから、何も考えずに寝るんだ。分かったか?」
康夫はうなずいた。日が暮れるのとほぼ同時に、何も言わずに布団に潜り込むと、そのまま目を閉じた。萩山は誰もいなくなった民宿の一階に下りて、靴が二足ともあることを確認し、二階へ戻ると、神谷の部屋の扉をゆっくりと開いた。取材道具は一式持って出たらしく、上着と旅行鞄だけが置きっぱなしになっている。萩山は上着のポケットを探った。鍵束は、萩山が覚えていた通り右のポケットに入っていて、簡単なリング型のホルダーでまとめられているだけだった。ハイラックスの鍵を抜いた萩山は、鍵束を元に戻し、自分の部屋に戻った。鍵は拍子抜けするぐらいにあっさり、手に入った。上着のポケットに入れて、靴下すら履いた状態で布団に入ると、体が少しだけほぐれたように、軽くなった。いつだって逃げ出せる。束自体があれば、ひとつ鍵がなくなっていてもすぐには分からないだろう。すでに寝息を立てている康夫の隣で、萩山は時計のアラームをセットすると、目を閉じた。
日が落ちるのに合わせて部屋が暗くなっていき、影のできる方向がゆるやかに変わっていく中、萩山は眠りに落ちた。今まで、夢をほとんど見ることがなかったが、今回は別だった。千尋の言葉が、形を変えながら頭の中を巡っていた。おかえりなさいというのは、地獄に帰れという意味だった。ここでは、神様とは見上げられる存在ではない。使い捨てだ。不作の呪いをかけた猫に対峙するために、そこにいる。合理的だ。一度目が覚めたとき、薄い緑色に光る時計の文字盤は、夜の七時半を指していた。完全に真っ暗だが、遠くで太鼓のような音が鳴っているのが聞こえる。
昨日集まっていた人間は皆、あの公民館の集会場にいるのだろうか。一体いつ、帰ってきたんだろう。夕方頃、車の音は全く聞こえなかった。冬は働かずに、家でのんびりと過ごすのだろうか。一度は、そんな気楽な生活を送ってみたいものだ。起きているのか、眠っているのか、自分でもはっきりと分からない状態がしばらく続いた。萩山は、すとんと落ちるように眠りに落ちて、一時間もしない内に目を覚ませた。今度は頭がはっきりとしていて、扉から吹き込む隙間風が指先に当たっていることまでが分かった。そして、か細い鳴き声。真っ暗な部屋の中で、萩山は目を開けた。時計の文字盤は、夜の八時半まで進んだ。少し早いが、そろそろ動いてもいいかもしれない。暗闇に目が慣れてきて、掛け布団を腰の上までのけたとき、首だけを起こした萩山は、目を凝らせた。部屋の隅に、人がいる。そのことに気づいたとき、か細い鳴き声が枕元の真後ろから聞こえて、萩山は天井を見上げた。影絵のように揺れる、おかっぱ頭。真上から、万世が見下ろしていた。目の周りが、囲うように真っ黒に塗られ、不器用にひかれた真っ赤な口紅は、口元から両耳まで伸びている。骸骨のような顔が笑顔に変わり、その口から猫に瓜二つな鳴き声が漏れた。それに合わせるように、部屋の隅から歩み出た彩乃が、同じように骸骨のような化粧を施された顔をゆがめて、猫と区別がつかないような鳴き声を上げた。
萩山は布団を部屋の端まで蹴り、そのまま立ち上がろうとしたがよろめいて、隣の部屋の壁に肩から突っ込んだ。壁に大きな穴が空き、隣の部屋のテレビのコードに腕が引っかかった萩山は、それをどうにかして引き抜こうと力を込めた。万世が甲高い鳴き声を上げたとき、康夫が起き出した。
「え、なに」
「ヤス! 逃げるぞ!」
萩山はそう言いながら、自分が言ったとおりに動ける態勢ではないことに気づいた。康夫が萩山の体を掴んで強引に引っ張ったことでバランスを崩し、電灯の笠を掴みながら後ろ向きに転んだ。土台ごと引き抜かれた電球が彩乃の頭に突き刺さって割れ、破片が肩まで縦に引き裂いた。萩山はようやく自由になった右腕で上着を掴むと、康夫に言った。
「早く!」
廊下に飛び出して、階段を駆け下りている途中で、萩山は一度振り返った。彩乃と万世がゆっくりと追いかけてきている。一階に辿り着くと玄関まで一気に走り、靴に両足を突っ込んだ。康夫がもたついているのを引きずるように外へ飛び出すと、萩山は拳を固めて辺りを見回した。点々と、松明の明かりが宙に浮いている。その数の多さに、萩山はたじろいだ。人の姿が見当たらないと今まで思っていたのが、嘘のようだった。ハイラックスの鍵を開け、エンジンをかけると、座席の位置を下げた。康夫が助手席に乗り込み、言った。
「兄貴、あの火はなに」
「おれにも分からない」
萩山はシフトレバーを一速に入れると、記憶した通りの道に向けて、ハイラックスを発進させた。車体が大きく傾いて加速を始め、萩山はヘッドライトをハイビームに切り替えた。猫のお面を被った子供があちこちにいる。この集落には、猫などいない。人間が、猫の鳴き真似をしているのだ。火を持っている大人たちは距離を詰めることなく、赤く照らされた顔だけを向けて、ハイラックスの進む先を追い続けた。萩山はハンドルを忙しなく回しながら、公民館から下る道に合流して一気にアクセルを踏み込んだ。昼間に見た通りの道が姿を現し、タイヤが雪の上に乗って最初のコーナーを回ったとき、道を塞ぐトラックが眼前に現れ、萩山は思わず急ハンドルを切った。長池石油と書かれた荷台をどうにかすり抜けたとき、急に方向転換したハイラックスの動きは止まることなく、そのまま路肩にいた長池親子の真上に乗り上げて、木に絡めとられるように激突した。萩山はフロントガラスに頭をぶつけて意識を失い、康夫は左肘をダッシュボードに挟まれて骨折した。
薄暗い色の煙をマフラーから吐き出し続けるハイラックスの周りに、松明の炎が集まり始めた。その後ろを猫のお面を持った万世がついて歩き、ハイラックスの下敷きになった長池親子を眺めて笑った。大人の輪からひょいと一歩出て、オフロード用タイヤに挟まれて空気の抜けたバスケットボールのようになった長池の頭を蹴った。
「火つけ! ドジ!」
その底抜けに明るい声に、周りが笑った。敏道はかろうじて息があったが、肋骨と腰の間を反対側のタイヤで分断され、そこから雪の上に川のような血の流れができていた。お面をかぶった千尋が前へ出て、自由が利かない敏道の顔を雪の塊で覆い始めた。その重みが少しずつ空気の通り道を塞ぎ、微かに聞こえていたごろごろという喉の音が消えたとき、千尋は手を打ち合わせた。
「長い年月、ご苦労様でした」