Frost
篠田は頭をひょいと下げながら、思った。これは、警察案件だ。動くかどうかは分からないが、一応地元の署に、事情を話した方がいい。時計をちらりと見上げて、篠田は玲香に言った。
「玲ちゃん、とりあえずさ。今日出るか」
「えっ? あ、うん」
玲香は取り残されていた話に強引に引き込まれたように、目を丸くしながらうなずいた。これ以上は、追及しないのだろうか。本当なら、自分で会話の手綱を持ちたい。しかし、篠田よりうまく聞き出せる気はしないし、今も頼ってしまっている。千尋も驚いたような顔をして、言った。
「あら、祭りは今日の夜なんですが」
「また来年、来ますよ」
「今年は、本祭なんですよ。二十五年に一回しかないので、来年はまた違うものになります」
千尋はそう言うと、歯を見せて笑った。篠田は、愛想笑いを浮かべた。
「そっかー、それは名残惜しいな」
少し間が空いた後、篠田は思い出したように宙を仰いだ。
「そうだ。集落の歴史について、もーちょっと知ってから帰りたいかな。油谷って人が猫を殺しちゃって、それは長池家になったじゃないですか。で、不作の呪いが始まって。祭りってのは、その呪いから守ってくれている神様に、感謝するんですよね。本祭が二十五年に一回ってのは、イベントがあるんすか? 本気で感謝する、みたいな」
篠田が息を切らせることなく言うと、千尋は小さくうなずいた。
「本気で感謝と言いますか。神様の交代が二十五年周期なんです。呪いが始まって二十五年が経ったとき、冬を越せないような飢饉になりまして。ある日、若い衆がひとり、薪を積んでいたときに下敷きになって、死んだんです」
「泣き面に蜂っすね」
篠田が相槌を打つと、千尋は首を横に振った。
「それが、そうでもなかったらしくて。遭難しかけていた行商が辿り着いて、夜を越させてくれと。彼らが食料を持っていたことで、乗り越えたんです。その行商が、野瀬家なんですよ。死んだ若い衆は、両足を失ったまま夜通し苦しんだそうですが、よその家のものを盗んだり、手癖が悪かったので、誰も悲しまなかった。父から聞いた話なので、正確かどうかは分かりませんが。二十五年が経って、また集落存続の危機を迎えたとき、偶然の幸運をもたらした若い衆のことを思い出して、即席の像を作った。それが、はちがしら様です」
千尋の言葉を黙って聞いていた篠田は、一字一句逃さず記憶したように、うなずいた。
「神様ってのは、ここの人たちの身代わりなんすね」
朝食が終わり、斎藤は戻らなかった。篠田は小さくため息をつくと、玲香に言った。
「ちょっと、斎藤ちゃん捕まえてくるわ」
玲香は目を丸くしたが、その有無を言わせない口調に思わずうなずいた。篠田が立ち上がったとき、千尋が玲香に言った。
「温かいコーヒー、お作りしましょうか」
「あ、お願いします」
玲香が上げかけた腰を下ろし、篠田は断りを入れるように小さく頭を下げると、立ち上がった。逆を向いた靴をひっくり返し、扉を開いたところで、千尋が『いってらっしゃいませ』と言った。篠田はスマートフォンを手に持つと、斎藤にメッセージを送った。
『朝メシ終わっちゃいましたよ、どこいます?』
集落は水を打ったように静かだ。篠田は、民宿炭谷を振り返った。この建物だけが、唯一生きているように見える。電気が点いている野瀬商店の中にすら、誰もいなかった。各々が得意分野を名前につけて、共同生活を営んできた集落。篠田は最後にもう一度、玲香と一緒にいたら遠慮して逃しそうな手がかりを求めるように、歩き始めた。社の真下に来るまでの道にあった民家の表札で、気にかかったのは、鎌谷、桑谷、そして増谷。狭い集落だから、苗字にすら『谷』という共通点がある。篠田が社へ続く坂道に足を掛けたとき、玲香からメッセージが届いた。
『斎藤さん、いた? 気を付けていってらっしゃい』
それを読んだとき、篠田は昨日からずっと頭の中にあった違和感を、はっきりと意識した。千尋は客が出て行くときに『いってらっしゃいませ』と言うが、帰ってきたときに『おかえりなさい』と言わない。
一九九六年 一月 二十五年前
夕方頃から、公民館の方へ人が集まり出すのが、遠目に見えた。野瀬商店で弁当を二つ買った萩山は、部屋で康夫と向かい合わせになって食べながら、行動を起こす時間帯について考えていた。人目につきにくいとすれば、夜中が一番だ。しかし、ヘッドライトを点けずに走り回るわけにはいかないから、動き出せば目立つ。日が明ける直前まで待つこともできるが、この規模の集落で誰にも見られずに出て行くのは不可能だ。朝抜け出して、どうにかして歩きで例の道を下り続けるのも、ひとつ。しかし、追いつかれるかもしれない。萩山はそこまで考えて、箸を止めた。一体、何に? 歩いて出るなら、止められる筋合いはないはずだ。明確に、誰かに引き留められたわけではない。それでも、頭がはっきりと、自分たちがここに『閉じ込められている』と認識してしまっている。萩山が再び箸を動かし始めたとき、隣で物音がした。神谷が取材道具を準備している。ハイラックスの鍵は、上着の中だ。帰ってくる頃には、酔っぱらっているだろう。萩山は、敢えて開けっぱなしにしている扉から聞こえてくる音に、耳を澄ませた。足音が鳴り、カメラバッグを肩から吊った神谷が、部屋の前を通り過ぎるときに頭を下げた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。連日、お疲れ様です」
萩山はそう言って見送った後、神谷が、ハイラックスを運転していたときとは違う、少し軽めの上着を着ていることに気づいた。康夫は弁当に集中していて、話しかけられそうな雰囲気ではない。階段を下りていく音が消えたとき、萩山は廊下に出て、扉の隙間から神谷の部屋を覗き込んだ。あの上着は、ハンガーにかかったままだ。部屋に戻ると、萩山は康夫に言った。
「もうちょっとしたら、おれが鍵を抜いてくる」
康夫は固まった白米にむせながら、うなずいた。萩山は、内容を理解しているかなど構うことなく、続けた。
「食い終わったら、おれが起こすまでは寝てろよ」
萩山は、康夫が弁当を食べ終わるまで無言で待った。千尋はまだ一階にいるが、公民館に行くと言っていた。昨日と同じような宴会だとすれば、夜の九時ぐらいに一番盛り上がるだろう。今が四時だから、五時間後だ。弁当のガラを部屋の小さなゴミ箱に押し込んでいると、自分たちの本来の居場所が、頭に呼び起こされた。広い都会に見えて、実際には、自分の居場所をギリギリ確保できるだけの余裕しかない。数センチ隣で息をしている人間は、周りの人間のことなんて考えていないし、見えてもいない。どうしようもない場所だが、そこには明日奈と修也、そして玲香がいる。家族を連れて、どこか別の場所へ行けたら。今までに考えもしなかったことが、頭に浮かんだ。斎藤の面倒だけ見てやればいい。康夫を殺す必要だって、ないのだ。自分が萩山家の恩恵にあずかることを、やめさえすれば。
テーブルを挟んだまましばらく経ったとき、千尋が顔を出した。
「お布団、出しておきますね」