Frost
彩乃は、名前の由来になっている壁一面のお面を見上げた。斎藤がぼんやりと全景を眺めていると、彩乃は右端を指した。
「私のお面は、これです。下が万世」
斎藤は、指に誘われるように二つのお面を見つめた。漫画のようにデフォルメされているが、ひげが接着されていて、手が込んでいる。彩乃は箒を傍らに置くと、髪を耳にかけて、屈みこんだ。斎藤は、その右頬から首にかけて、大きな傷跡が走っていることに気づいて、視線を逸らせようとしたが、その直前で彩乃が顔を上げ、目が合った。
「大きな怪我をしたのは、このときだけなんですけどね。やっぱり、目立ちますよね」
彩乃の寂しそうな表情に、斎藤は慌てて首を横に振った。
「いえ、今まで気づきませんでした。自分は、もっと目立ちます。足を怪我して」
彩乃は笑顔だけで応じると、ゆっくりと立ち上がった。斎藤は続けた。
「自分は十五年、刑務所にいました」
怖がらせると、弱くて柔らかいものは逃げてしまう。頭の中ではそう考えていても、どうやって止めていいのか、分からなかった。まっすぐ見返してくる彩乃の目は、薄暗い講堂の光を全てかき集めたように、鈍い光を跳ね返していた。がらんとした空間に散っていた空気が、耳鳴りを呼び起こすぐらいに冷え込んで、斎藤は首をすくめた。彩乃は言った。
「いつからですか?」
「二十五年前にパクられ……、いや、逮捕されて。そこから十五年」
斎藤が言うと、彩乃の表情が少しだけ険しくなった。
「冤罪なんでしょう?」
その言葉を聞いたとき、斎藤の心臓が容赦なく跳ねた。
「なんでそれを……」
彩乃は、口角を上げて笑った。
「色々と、お話を聞かせてもらったんです。あのときは、結構な騒ぎになって」
斎藤は、再び髪で隠れた彩乃の右頬を透かすように、じっと見つめた。彩乃は言った。
「そのときに、私も怪我をしたんです」
「それをやったのは……」
斎藤が呟くと、彩乃はうなずいた。
「弟さんのほうですね」
斎藤は、自身が受けた『十五年の刑』に、彩乃の『頬の傷』を付け加えた。ずっと捕まえようとしていて、手が届かない感覚。どこかに鳴いている猫がいて、目の前には、ある家族によって、人生を捻じ曲げられた女が立っている。自分と同じように。彩乃は言った。
「思い出すこともなくなっていたんですが、やっぱり辛いですね。すみません」
彩乃はそう言うと、片方の目にうっすらと浮かんだ涙を拭った。斎藤は、無意識に拳を固めた。自分がまっすぐ歩けないということを、どこかで普通のことだと受け入れてしまっていた。やってはならないことのほとんどを、体に受けた暴力によって学んだ人間。事故で頭を壊してからは、そうする以外、社会生活に馴染む方法はなかった。そう思って生きてきたが、そもそも刑務所に入ることになった上に、足の指を失ったのは、萩山家からの音沙汰がなくなり、そのままの『他人の罪』で裁かれたからだ。
「あ、あの。野瀬さん」
斎藤が言うと、彩乃はかしこまったように背筋を伸ばした。斎藤は、自分の頬に手をやりながら、続けた。
「怪我のせいで、嫌なことを言われたりとか、ありましたか」
彩乃は首を横に振った。
「いえ、そんなことはないですよ」
会話が突然途切れ、彩乃は自分が入ってきた講堂の扉を振り返った。
「私、いつも掃除してるんですよ。中はそのままにしてるんですけど、外の雑草とかは綺麗にしてます」
箒を手に取ると、彩乃は歩き始めた。斎藤は無意識にその後をついていき、講堂から廊下へ出た。彩乃は軽い足取りで廊下の反対側に辿り着くと、鍵がかかった用具入れのような小屋の前に立った。真新しい南京錠に鍵を差し込むと、彩乃は扉を引き開けた。滞っていた空気が染み出し、斎藤は思わず顔を背けた。視線を用具入れの中に戻したとき、ほとんどの資材を押しのけるように押し込まれた車を見て、目を見開いた。
錆びて埃に包まれたカローラバンが、そこにいた。
「玲香さんには、言えませんけど。当時起きたことは、警察にも言えなくて」
彩乃は力なく笑った。斎藤は、タイヤの空気が抜けきったカローラバンのナンバープレートを見て、即席で今作られたのか、ずっと居座っていたのかも分からない、当時の記憶を呼び起こしていた。萩山和基の声や、笑い方の癖。ヤスが助手席で狭そうに体を縮めている様子までが、頭に鮮明に浮かんだ。取り返した矢先に、ほとんど失われた自分の人生。萩山家が、自分をこういう風にしたのだ。そう考えながら、斎藤は彩乃の横顔を見た。不思議な感覚は、今でも残っている。朝、宿から出たとき。野瀬商店で買い物をしようか迷った。それは、レジに彩乃がいて、店を開けていると思ったからだ。しかし今は、箒を持って、掃除をするために来たと言っている。まるで、集落がひとつの大きな目で、自分の動きを追っているようだ。斎藤の視線に気づいた彩乃は、呟くように言った。
「はちがしら様というのは、罪人なんですよ」
「あ、あの。本祭というのは」
斎藤が尋ねると、彩乃は頬を緩めた。
「はちがしら様が交代します。そして、また先の二十五年、お守りいただきます」
斎藤は、自分と同じような罪人が神様として大切にされる風習を奇妙に感じたが、人がひとりようやく入れるぐらいの狭い居場所を見つけたような、霧が晴れるような感覚も同時に味わった。頭の中の、空っぽになった入れ物。いつも持て余していたが、ここなら置いていても、大丈夫なのかもしれない。
「あの、まも……、守ってる間、はちがしら様は大事にされるんですか?」
斎藤が言ったとき、開け放たれた入口から淡い色の朝日が差し込んだ。逆光で半分が塗りつぶされた顔で、彩乃は笑った。
「はい、お供えは欠かさず。だからあなたも、ずっとここにいていいんですよ」
「斎藤ちゃん、朝メシどーすんのかな」
食卓にぽかんと空いた席を見ながら、篠田が言った。千尋は斎藤の分を作らずにおいたが、台所にはいつ帰ってきても食事を出せるように、調理器具が出しっぱなしになっていた。玲香は箸を手に持って、呟いた。
「いただきます」
千尋が空いた席に座るなり、篠田は言った。
「あの、玲ちゃんの親父さん、いつまでいたんでしたっけ」
「祭りの間は、いらっしゃいました」
千尋はすらすらと話した。玲香は食事の手を止めないようにしながら、その言葉の続きを待ったが、篠田に会話の主導権が戻されていて、しばらく沈黙が流れた。篠田は味噌汁をひと口飲むと、言った。
「結局、車は治ったんすかね」
「ええ」
千尋は短く言うと、愛想笑いを浮かべた。篠田はかろうじて顔だけうなずくと、千尋が正直に話すだろうと心のどこかで期待していたことに自分で気づき、それを打ち消すために温かいお茶を飲んだ。
「そっかあ」
篠田が言ったとき、玲香はできるだけ表情を動かさないようにご飯を食べたことで、思わずむせた。千尋はお茶を注ぎ足すと、言った。
「親が生きていれば、もっと色々と話が聞けたと思うのですが。あまりお力になれなくて、申し訳ないです」
「いえいえ、色々分かって、よかったっす」