Frost
それは、まだ十六歳になったばかりの、千尋の言葉だった。長池家の出入りを未だに禁止にしている野瀬商店に比べると、もっと歴史が長いはずの炭谷家にいながら、千尋は過去に囚われない性格だった。冬に緊急事態が起きたときのために、無線を持っていてほしいと頼みに来た日のことだった。耳障りのいいことを親が言わせたとは、思えなかった。もちろん、父親が頼みごとをしてくるときもあり、都合よく使われているように感じることもある。しかし、あのとき無線を手に現れた千尋の表情を思い出すと、集落と長池家を平等に繋ぐための手段だと、思い直すこともできた。まだ、無線は鳴らない。それがいいことなのかは、分からない。ただ、前回の『本祭』から、二十五年が経ったのは確かだ。
「おかえりなさい」
長池は、禁句とされている言葉を呟いた。
「今まで、ありがとうございました。おかえりなさい」
集落史に残る、おぞましい絵。間に合わせで作られた、出来の悪い像。
その八つの頭のほとんどには、顔がない。
二〇二一年 一月
窓の格子状に刻まれた朝日が差し込んで、布団をいびつに照らしている。篠田は体を起こした。頭の中には、カローラバンの鍵がどっしりと腰を下ろしていて、眠っている間も何度かそのイメージが頭に浮かんできて、目が覚めた。車を残して移動できるような土地じゃない。斎藤が死人のような顔色で寝息を立てているのを見て、篠田はゆっくりと布団から外に出た。くしゃみを堪えながら部屋から廊下に出たとき、スマートフォンを手に持った玲香が、部屋から顔を出した。
「おはよ、早くない? 七時だよ」
「寝れねーよ。マイ枕がねえもんな」
篠田があくびを噛み殺しながら笑うと、玲香は力なく付き合うように笑った。篠田は人差し指を口に当てて、静かにするようジェスチャーすると、一階を気にするように視線を泳がせながら、玲香の部屋に上がった。
「今日もさ、女将さんに色々聞こうと思ってんだけど、もしかしたら嘘が返ってくるかもしれないんだ。玲ちゃんも、その覚悟はしといてほしい」
布団の上に腰を下ろす玲香は、眠気を振り払うように強く瞬きをした。
「どういうこと?」
「お父さん、三日で出たって、言ってたろ?」
篠田はそう言って、カローラバンの鍵を乗せた手を、差し出した。
「これな、多分その壊れた車の鍵なんだけど、隣の部屋の、テレビの下に挟まってたんだ。だからさ……」
玲香は、篠田の手に新種の虫を見つけたように、反射的に顔を引いた。
「え……」
「車は多分、治ってない。他の手段で出た可能性はあるけど。とりあえずおれは、これを見つけたことは伏せてさ。知らない体で聞いてみようと思う」
篠田が言うと、玲香は首を傾げた。
「嘘をつくなんて、あるかな」
「分かんねーけどな」
肩をすくめる篠田は、動きはいつも通りでも、顔は笑っていなかった。玲香は言った。
「勘で、何か怪しいところがあるの?」
「野瀬家のさ、万世さんっているじゃない。昨日色々、教えてもらったろ」
「妹さんのほうだね」
「そーだな。いや、玲ちゃん途中で、トイレ行ったじゃない。帰ってくるまでの間、すげー距離が近いんだよ。あとさ、あの子ドライブインで働いてて、おれのマジェスタに気づいてたぽいんだ」
田舎は人が少ないから、よそ者が目立つ。集落を通り過ぎる手前にある、関所のようなドライブイン。万世が働いている姿は、こちらからは全く分からなかった。玲香は、部屋の冷たい空気から逃れるように首をすくめた。篠田は続けた。
「結構な情報だろ? それはいいとして。どうしておれだけに言ったのかが、気になる」
篠田が息継ぎをしたとき、隣の部屋で大きなくしゃみが響いた。篠田と玲香は二人とも同じタイミングで飛び上がり、笑った。篠田は言った。
「斎藤ちゃんだな」
上着を羽織る衣擦れの音が鳴り、開きっぱなしになった扉から斎藤の姿が見えた。玲香は言った。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。ちょっと散歩してきます。健康、健康のために日課でして」
「あーそう、気をつけて」
篠田が短く言い、階段を下りていく足音を聞きながら、笑った。
「歩くのが日課って。まっすぐ歩けねえのにな」
玲香は愛想笑いだけ返すと、スマートフォンを手繰り寄せて、篠田が現れる直前まで開いていた画面を表示した。
「ここのこと、わたしも調べてたんだ。廃校は、学校なのにお面屋敷って呼ばれてるらしいね」
斎藤は、自分の方を向いている靴をひっくり返すと、体を不器用に傾けながら履き、外に出た。朝の冷たい空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き、野瀬商店で買い物をするか少しだけ迷った後、上り坂に誘われるように歩き始めた。左手には廃校、右手には公民館。まっすぐ上がり切れば社がある。斎藤は坂が緩やかな廃校の方へと歩き始めた。雪と苔が入り混じっていて、通学用の石段はつるつると滑った。斎藤は歪んだ木造校舎の前に立つと、民宿の方向を見下ろした。それほど歩いた感覚はなかったが、ずいぶん小さく、遠くに見えた。
「田舎……」
独り言が思わず漏れたとき、近くで鳴き声がした。斎藤は返事をするように、口笛を吹いた。昨日からずっと、気にかかっていたのだ。店で猫が出ることはほとんどないが、斎藤の頭の中では『弱くて柔らかいもの』に分類されていた。その点、康夫と特に話が合ったことを、今でも覚えている。康夫は目で追いかけるだけで、危害を加えることはなかったが、それはあまりに素早すぎて捕まえられないからという単純な理由だったと、今になって思う。その証拠に、康夫は話の通じる『弱くて柔らかい人間』に手を付けた。相手は、店の雑用をする康夫のことをからかって遊んでいた。もう名前は忘れてしまったが、笑い声が耳障りで、今どこかから聞こえる鳴き声にも共通する響きがあった。
廃校は正門こそロープで縛られていたが、その隣の通用口は扉が倒れて開きっぱなしになっていた。斎藤は、鳴き声を追いかけるように中を覗き込んだ。光はほとんど通らず、廊下はそこだけが夜から抜け出せなかったように、真っ暗だった。斎藤はスマートフォンを手に持ったが、ライトを点ける気にはならず、目が慣れるまで待った。乾いた足音が聞こえる。木の床は軋むが、踏み抜くほどは傷んでいなかった。斎藤はがらんとした教室をひとつずつ覗き込んで、小さな講堂のような部屋に行きついた。斎藤は足を踏み入れ、ぐるりと見まわした。最も広い壁の一面に、猫のお面が並んでおり、斎藤は思わず後ずさった。ひとつひとつ形が違い、それは在校生の手作りのようだった。愛嬌のあるもの、猫の特徴を捉えたもの、その出来や趣向は様々だ。斎藤は、無意識に野瀬姉妹のお面を探していた。新しい年代から逆にたどり始めたとき、斎藤がいる側と反対の扉が静かに開いた。
「おはようございます、ここは危ないですよ」
手に箒を持った彩乃が、笑った。斎藤は肩をすくめながら、うなずいた。
「す、すみません。すぐ、出ますんで」
「いえ、構いませんよ。インターネットだと、この学校が一番有名なくらいで。お面屋敷って、呼ばれてるんです」