Frost
「診てくれるから、我慢しろ」
萩山は小声で言うと、キーを捻った。セルモーターの回る音が鳴ったが、エンジンはかからない。男は言った。
「うーん、ガソリン入っとるよね? あ、申し遅れましたが、おれは長池」
「萩山です」
本当なら、自己紹介をしたくない。隣に康夫を乗せて、この車で走っている姿。それと名前が結びつくのは、正直困る。長池は、名前を聞いてようやく先に進むだけの材料を得たように、道路の先を指差した。
「バッテリーじゃないね。ダイナモでもない。うちのスタンドまで牽引しようか? 二人とも凍えちゃうよ」
康夫が助手席から降りて、トラックに乗り込みたくて仕方がない様子で、萩山と長池の顔を交互に見た。長池が合図をするようにうなずくと、萩山の了承を待たずにキャンターの助手席に乗り込んだ。その様子を見ていた長池は、ふと思いついたように萩山の方に向き直ると、言った。
「兄弟?」
「そうです、弟。頭が弱いんですよ」
「ああそう」
長池はそっけなく言うと、キャンターの運転席のドアを開けて、牽引ロープを取り出した。
「ちょっと寒いけど、ハンドルお願いしますね。十五分くらいの辛抱。ブレーキとか効かんから注意して」
萩山はうなずいて、カローラバンの運転席に乗り込むと、サイドブレーキを下ろした。長池がキャンターの運転席に戻り、ブレーキランプが真っ赤に光った。リアタイヤにはチェーンが巻いてあり、カローラバンの車体を難なく引っ張り始めた。
長池石油と書かれたガソリンスタンドは、見過ごしてしまいそうなぐらいに目立たず、萩山は、入口で強めにブレーキを踏んだキャンターの後部に追突しそうになった。再度引っ張られ、屋根の下に入ったとき、窓に降り注ぐ雪が止まって、萩山はようやく息をついた。外の世界から切り離されたように、給油ブースは賑やかだった。店員が出てきて、二台しかないポンプを一台の車で塞いだ形になっていることに困惑しながら、言った。
「いらっしゃいませ……、故障ですか?」
運転席から降りてきた長池が、帽子を被り直しながら言った。
「ちょっと、診てくれ。セルは回るが、火が入らん」
「了解っす」
萩山は運転席から降りて、店員のために場所を空けた。長池は、事務所から缶コーヒーを二本持ってくると、一本を手渡して言った。
「弟さんは、相当寒い思いしたみたいね。降りてこんぞ」
康夫は、助手席で扇風機の風のように暖房の熱風を浴びている。目が合ったが、萩山は車から出ないよう手で制した。缶コーヒーの一本は康夫のためだったらしく、長池は缶を手の中で転がしていたが、諦めたようにプルトップを引っ張り、萩山に合わせるように一口飲んだ。萩山は、乾杯するように缶を掲げながら言った。
「ありがとうございます」
「それにしても、ちょっと無茶やねえ。方言ないし、この辺の人違うよね?」
長池は、明らかに場違いな萩山の全身を検分して、笑った。萩山は自分自身に呆れたようにうなずいた。
「もっと、内陸側です」
セルモーターが鳴り、萩山は運転席の方向を向いた。若い店員が、再確認するようにキーを捻っている。そこで諦めるかと思ったとき、店員は燃料キャップを開けて、長池に言った。
「親父、セル回してみて」
息子。萩山が二人の関係を理解したとき、長池が言った。
「せがれです。敏道って名前です」
萩山が愛想笑いを浮かべて頭を下げると、敏道は表情を切り替えるように笑った。
「どうも」
長池がキーを捻るのと同時に、セルモーターが唸った。その間、タンクの中に耳を向けた敏道はしばらく黙っていたが、小さく息をついてから言った。
「燃料ポンプが、動いてないっす」
長池が運転席から降りてきて、帽子越しに頭をかきながら言った。
「正月は、いつからやったかな。部品屋が開いてないと、どないもならん」
今日は、一月五日。萩山は、店の壁にかかるカレンダーを眺めた。明日は土曜日だが、そんな感覚もあまりない。はっきりしているのは、カローラバンは動かないということだ。長池の言葉を借りるなら『無茶』でもある。キャンターの助手席のドアが開き、康夫が不器用に体を揺すりながら降りてきて、言った。
「治った?」
萩山は首を横に振った。康夫は遠足が中止になったように、俯いた。長池は言った。
「ちょっと、すぐには治らんのよ」
康夫はカローラバンを見つめていたが、萩山に言った。
「じゃあ、歩く?」
萩山は笑いながら首を横に振り、長池に言った。
「街って、近いですか?」
「まあ、歩けん距離ではないが……、いや、歩いたらいかんよ。ただ、送っていくと、うちの車だと戻れなくなりそうでね。帰りは上りやから」
長池は、すでに真っ白になった道路を眺めながら、言った。自分で作った沈黙に耐えられなくなったように、萩山兄弟の顔を交互に見た。
「民宿で良ければ、もっと近くの集落にあるけど。とりあえず泊まって、朝になるまで待ったら? どの道、今日は動けんよ」
萩山は、ゆっくりとうなずいた。
「迷惑にならなければいいんですが……」
「そんなことないよ。話し相手にはなってもらうかもしれんけどね。いつも同じ顔同士で話しとる連中やから」
長池は笑い、カローラバンに顔を向けた。
「忘れ物とか、ありませんかね」
萩山はカローラバンの車内からマフラーを回収し、ボンネットのレバーを引いた。長池親子の視線が逸れていることを確認してから、シリンダーから鍵を抜いて、ドアをロックした。用心に越したことはない。萩山が鍵をポケットにしまうと、長池が振り返って言った。
「そんな、かからんよ。ただ、乗り心地は悪いから堪忍してくださいね」
最後まで言い終わらない内に、長池はキャンターの運転席のドアを開けて、乗り込んだ。萩山は康夫に言った。
「真ん中に乗れ」
天井を押し上げるような座高に、長池は笑った。
「よく食べるやろ自分」
牽引ドライブ中に、随分と打ち解けたらしい。萩山は、康夫が浮かべた笑顔を見て、少しだけ胃の辺りがざわつくのを感じた。康夫は、誰とでも友達になれる。その点については、昔からそうだった。十分も走らない内に、石造りの橋が川を渡っているのが見えて、長池は、その手前の真っ白な雪景色をぎざぎざに貫くような数軒の家の屋根を指差した。
「一番手前がうち。あいにく、客間はないんだ」
そこから数分走ると、数十戸の家屋がなだらかな斜面に建てられているのが見えて、ちょうど中腹あたりに、立派な二階建ての建物があった。萩山は、真ん中の席で置き物のようになっている康夫を避けるように、身を乗り出して言った。
「あの真ん中の家がそうですか?」
「そう。端の白っぽいのは公民館。逆の端には学校がある。まあ、寺子屋みたいなもんだけどね」