Frost
一
一九九六年 一月 二十五年前
「飯食ったとこ。そう、例の峠越えて……。これから? ガソリン入れてってとこかな」
萩山和基は、受話器を顔で抱え込むように支えながら、電話ボックスの曇ったガラス越しに空を見上げた。昼の三時。真っ白な空から降り注ぐ雪は少しずつ勢いを増していて、駐車場に停められた白いカローラバンにも積もり始めている。前輪駆動の市街地仕様。チェーンは積んでいない。
「じゃあ、世話かけるけど」
萩山は呟くように言うと、公衆電話を受話器に戻した。三十歳にもなって、思い立った日に飛び出してきたような軽装で、雪山を越えようとしている。数分前、ラーメンを食べたときに少しだけ取り戻した熱気は、公衆電話まで歩く数十メートルの間に消えてしまっていた。時間に背中を押されている自覚はずっとあったが、今度は雪だ。できるだけ急がなければならない。萩山は早足で駐車場へと戻った。アイドリングを続けるカローラバンの隣に停まっているトラックは、古いキャンターの燃料運搬車で、白い車体に臙脂色の字で長池石油と書かれている。運転手らしい男は車体にもたれかかって、しばらく空を見上げていたが、呆れたようにこちらを向くと、愛想のいい笑顔で言った。
「これから、降りますよ」
「急ぎますわ」
萩山は一礼だけして、マフラーから湯気のような排気ガスを上げるカローラバンの運転席に座った。
「兄ちゃん、誰と? 家?」
「違うよ」
萩山はそう言って、今年二十四歳を迎える弟の顔を見た。萩山康夫、家事手伝い。図体だけは大きく、ダウンジャケットが着ぶくれして、余計に巨大に見える。
「なんて言ってた?」
「安全運転でって」
萩山はそう言うと、サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏み込んだ。片側一車線の国道に合流するとき、白く凍ったグレーチングで足を取られたようにカローラバンの車体がふらつき、思わず急停車した萩山は細く息を吐きだした。念を入れ直すようにシフトレバーを一度ニュートラルに戻すと、再度一速に入れて、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
チェーン規制はかかっていないが、待避所には作業中の車が一台停まっているのが見えた。控えめな速度で走り続けて十五分ぐらいが経ったとき、車体がどしんと揺れて、萩山は康夫と顔を見合わせた。しばらく沈黙が流れたが、答えの出ない言葉は萩山が呟いた。
「なんだ今の?」
「ワンコとか、轢いた?」
康夫が普通じゃないと分かった日。萩山は小学校高学年だったが、よく覚えていた。康夫は、普通学級にはついていけない。親父とおふくろがそう話しているのを盗み聞きして、思わず笑った。すぐに罪悪感が追いついてきて考えを打ち消したが、最初にこみあげる笑いだけは、今でも変わらない。親よりも接している時間が長かった萩山は、そのことに薄々気づいていた。康夫は、物事を理屈で考えられない。ただ、野生の勘だけは強くて、隠れんぼをさせたらまず見つけられなかったし、逆にこっちが隠れているときは、どれだけ巧妙に隠れたつもりでも、あっさりと見つかった。
同じ揺れが起きて、今度は二回続いた。
「二匹」
康夫がそう言って、包み込むように首をすくめて笑った。
「一キロ走るのに三匹も轢くかよ」
萩山が言うと、康夫はその言葉に後押しされたように笑い続けた。空気がめちゃくちゃに揺れて、その体は存在感を増した。萩山は細身で中背中肉だが、康夫は横にも縦にも大きく、体重は百キロ、身長は百八十五センチまで伸びた。
萩山はクラッチを切り、空ぶかしをした。三回目で回転が途中で頭打ちになり、エンジンが揺れたのが車内に伝わってきた。萩山は言った。
「エンジンだ」
待避所に寄せてハザードを焚き、ボンネットを開けたが、真っ黒な物体は素知らぬ顔で動き続けている。思い出したように、雪が積もり始めた。走ってきた道を見返すと、すでに真っ白になっていた。これから走る先も同じだ。
「くそ……」
萩山がそう呟いたとき、エンジンが気を悪くしたように、音を立てながら何度か揺れてから止まった。萩山は運転席に戻ってキーを捻ったが、セルモーターが回るだけで、エンジンはかからなかった。
「壊れちまった」
萩山は呟くと、振り返った。二十分ぐらい走った。雪道でペースが落ちているとはいっても、さっきの食堂から十キロは離れただろう。歩いて戻るには、気が重くなる距離だ。
カローラバンは、クリーニング屋との行き来に使っていた車だが、最後に整備したのがいつだったかは、思い出せない。新車で買って五年が経つが、すでに十二万キロ走っている。これまで何かが壊れた記憶はなかった。思い出しても仕方のないことばかりが頭に浮かんでは消え、康夫がそれに割って入った。
「寒い」
萩山は、急激に冷え込む車内でバッグを探り、カイロを数枚抜くと、康夫に手渡した。
「ちょっと、戻ってくる」
「足が寒い」
「うるせえな。じゃあ、足に当ててろ」
萩山は運転席から降り、叩きつけるようにドアを閉めると、前に回ってボンネットを閉めた。歩いて戻るのは、想像以上に大変そうだ。凍っている箇所があって、光っている。今はどこを歩けばいいか分かるが、日が暮れたら? 足が進まない。車内では康夫が足首にカイロを巻こうとして、窮屈そうに体を屈めている。萩山は、待避所の手前で途切れたガードレールまで歩いていくと、道沿いに流れる川を見下ろした。十メートルぐらいの崖下を、かなりの勢いで流れている。落ちれば、ひとたまりもない。これから雪が降り続けるなら、落下を生き延びたとしても、元の道に上がることはできないだろう。
しばらく崖下を見下ろしていた萩山は、大きなくしゃみをして、後ずさった。実際にはエンジンが停まって数分だが、もう数時間はこの状態が続いているように感じる。康夫は、まだカイロを足首に巻こうとしているだろう。それを手助けするつもりもない。自分には、待避所で途切れたガードレールが、今の居場所に一番ふさわしい。萩山はそう思いながら、白い息を宙に吐いた。腕時計は、午後三時半を指している。歩くなら歩くで、今から始めなければならない。そう思ったとき、真っ白な景色の中に少しだけ黄みがかった光が混ざり、四つの丸いヘッドライトが景色を割るように現れたのが、遠目に見えた。萩山はガードレールの後ろに回り、息を殺した。それが、食堂で見かけた燃料運搬仕様のキャンターだと分かったとき、轟音のようなエンジンブレーキの音が鳴って、速度を落としたキャンターはカローラバンをやり過ごすと、少し前で車体を端に寄せて停まった。真っ赤に光っていたブレーキランプがすぐに消えて、運転席のドアが開いた。ガードレールで体を支えている萩山に向かって、男は愛想のいい笑顔を浮かべながら手を上げた。
「隣にいた人だよね。止まっちゃった?」
「はい」
萩山は自分に対して呟くように小声だったことに気づいて、同じ言葉を大きな声で繰り返した。萩山がカローラバンまで戻ると、男は言った。
「急に冷えたからねえ。ディーゼル?」
「ガソリンです」
「そうかぁ。ちょっと、セル回してみてよ」
運転席のドアを開けると、たった数分で唇が紫色に変わりつつある康夫が、抗議するように萩山の顔を見上げた。
「寒い」