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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Frost

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「三百年以上前になりますが、この集落は、守り神の猫を誤って殺したんです。猫は祟りとなって、作物が育たなくなりました。当時の人間は、その祟りを打ち消すために神様を立てたんです。はちがしら様というんですが、社に名前が残っています」
 千尋はそう言うと、外に出ようとしている斎藤に今更気づいたように自分も靴を履き、引き戸を開いた。二人で外に出て、千尋が引き戸を閉めたところで斎藤は言った。
「はちがしらって、どんな風に書くんです?」
「八つの頭と書きます。急ごしらえの像の出来が悪くて、頭が八つあるように見えたからだそうです。昔の人は、必死だったんだと思います」
 千尋はその様子を思い描いているらしく、斎藤が全く共有できない笑顔を浮かべた。
「悪いものってのは、猫なんですか?」
 斎藤が言うと、千尋はうなずいた。
「ええ。明日が、その猫の命日なんです。寝ずの番で、はちがしら様を守るのが、祭りの意義です」
 斎藤はうなずいたが、千尋の言葉はあまり浸透していなかった。頭の中の、空っぽになった入れ物。そこに溢れていた、殺し方のアイデア。この集落には、明日までに悪いものが集まってくる。かつて火だるまにしたネズミが檻に体当たりする金属音が、猫の鳴き声に変わり、思いがけず玲香と篠田の顔に結び付いたとき、斎藤は思った。
 自分も、『悪いもの』のひとつなのかもしれない。
        
 野瀬商店は、名目上は十八時で閉店。しかし、店主が二階に住んでいるのだから、二十四時間営業と変わらない。彩乃は社に続く坂道を早足で上がり切って、息を整えた。姉妹が二十歳になったとき、父は手伝いで出向いた建設現場の事故で死んだ。その二年後に母が続き、野瀬商店は自然と姉妹の手に引き継がれた。集落の人間は不文律に縛られたように、野瀬商店以外では買い物をしなくなった。住人がいる限り、商店は守られ続ける。それは有難いことだったし、今でもその不文律は続いている。
 彩乃は二十代の半ば、集落の外から配達で訪れる男と付き合い始めた。しかし、八頭集落という名前はどこまでもついて回る。自分たちで守り神を殺してしまったことで不作になったこの土地は、『忌み地』とされている。それが自業自得だという評価は深いところに根付いていて、配達人の男にもその意識を見出した彩乃は、自分から別れを切り出した。三十五歳になって思うのは、冒険心よりも、見慣れた景色の心地よさが勝つということ。自分以外の最後のひとりが死に絶えて、野瀬商店を利用する人間がいなくなったら、その時考えればいい。子供のころからどこか大人びていて、現実主義的だと言われてきたが、彩乃自身は、自分のことをそう考えたことはなかった。もし現実主義的な性格なら、若い内にこの集落から離れていただろう。自分と万世が学んだ学校が廃墟になって、木造の柱がゆっくり傾いてきているのを見ても、何とも思わなかっただろうし、二十年以上現役の黒電話だってとっくに撤去していただろう。地元との縁を断つどころか、むしろ丁寧に守ってきた。しかし、気になることもある。果たして、はちがしら様は、本当に私たちを守ってくれているのだろうか。千尋の家も、両親は六十代で亡くなった。そして、千尋も独身だ。八頭集落には『子供』がいない。
 もし、これがひとつの壮大な呪いだとしたら。彩乃は分厚いジャケットの中で細い体を震わせた。集落全体が二十五年の歳月をかけて、こうなったのだとしたら? 疑うこと自体が、罪深い。理屈では分かっていても、昔の人間に話しかけることができるなら、聞いてみたい。今の集落の姿を想像できただろうかと。残った家は七軒。住人は二十人ほどで、祭りに参加する家は野瀬家と炭谷家だけになった。万世は、公民館に行ってみると言った。『お客さん』が調べ物をしているなら、手伝いたいと。彩乃は思った。私なら、集落史を開く気にもならない。まだ十六時だが、木々が覆いかぶさるように日を隠し、社の前は薄暗かった。彩乃は手を合わせると、目を閉じた。
「はちがしら様。一年間、ありがとうございました。どうかご無事で」
 奥からは、薪を割る機械的な音が聞こえる。彩乃は少し大きな声で言った。
「よろしくお願いします」
 斧の音が一度止んで、また繰り返された。ランニング用のウエストポーチの中でスマートフォンが光り、彩乃は一歩下がって、千尋から届いたメッセージを読んだ。
『はちがしら様に、ありがとうございました、おかえりなさいって、伝えておいて』
 彩乃は目を見開いた。『おかえりなさい』という言葉を軽々しく使うことは、固く禁じられている。彩乃は動悸を抑え込むように胸に左手を当てると、社を笑顔で見上げた。
      
 十八時きっかりに夕食が並び、玲香は目を丸くしながら言った。
「これ、全部千尋さんが作ったんですか?」
「ええ、お漬物だけは野瀬から買っちゃいました」
 そう言って小さく舌を出す千尋は若々しく、とても四十四歳には見えない。この集落に来て、幾度となく思ったこと。千尋だけでなく、彩乃や万世も同じように、所帯疲れのようなものが全く見えない。玲香は笑顔を返すと、椅子を引いた。隣に篠田が座り、その向かいに斎藤が座った。篠田はお茶を人数分注いだところで、四つ目の湯呑みがないことに気づいて、言った。
「千尋さん、食べないんすか?」
 千尋は口元に手を当てて笑った。
「私はご一緒できませんよ。でも、お話なら伺いますよ。公民館はいかがでしたか?」
 千尋が食卓の空いた席に腰を下ろすのと同時に、玲香が言った。
「あの、わたし萩山玲香っていうんですけど。二十五年前にここに泊まった人の娘なんですよ」
「あら、そうなんですか」
 千尋が目を丸くするのと同時に、篠田と斎藤が『いただきます』と言い、玲香もそれに倣った。変なタイミングで切り出してしまった。玲香はそう思いながら、千尋の視線を追った。後ろを振り返ったまま、千尋は言った。
「昔の宿泊帳、あるかしら」
 言いながら立ち上がり、千尋が襖の後ろへ入っていったとき、篠田が言った。
「あの写真の話、万世さんしてねーのかな」
「どうだろう」
 斎藤が箸を動かす音だけが響き、篠田と玲香は千尋が戻ってくるのを待った。分厚い宿泊帳の埃を丁寧に払うと、千尋はバツが悪そうに首をすくめながら言った。
「食事中にすみません。ちょっと埃っぽいですよ」
 千尋が開いたページに、二人分の名前があった。一月五日と書かれた隣に並ぶ文字の羅列だったが、玲香はそれを指でなぞりながら呟いた。
「萩山和基。お父さんの名前だ」
「康夫ってのが、弟さんか」
 篠田が言ったとき、斎藤が箸の動きを緩めて、首を伸ばした。
「自分は、ヤスの友達だったもんで。でも、いなくなるって何があったんでしょう」
 宿泊帳に書かれた『ご出発』の欄には、一月七日と書かれている。玲香は頭の中で日数を数えた。三日で車を修理して、出て行ったことになる。
「近くに長池石油ってあるじゃないすか。修理お願いしたのって、この辺ならあっこすか?」
 篠田が思い出したように言った。千尋はうなずいた。
「そうですね。大雪で部品がすぐに届かなかったから連泊になったと、記憶しています」
「燃ポンですか」
作品名:Frost 作家名:オオサカタロウ