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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Frost

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 斎藤が言ったとき、玲香が息を呑み、篠田があの『険しい目』を斎藤に向けた。それは侵入して日誌を見なければ分からないことだ。千尋は単語の意味が分かっていない様子で、愛想笑いを浮かべた。湯呑みに自分で茶を注ぐと、言った。
「長池家というのは、うちと同じぐらい歴史が長いんですよ。斎藤さんにはお話ししましたけど、猫にまつわる祟りの話は、万世から聞かれましたか?」
 篠田が穏やかな表情に切り替わると、うなずいた。
「なんか手違いで死なせちゃって、反省したんすよね」
「あはは、反省。そうですね。その猫は賢くて、どの家にいけば何がもらえて、可愛がってくれるか分かっていたそうです。長池は油売りでした。ある日、猫の相手をしているときに行燈を倒してしまい、家は焼け落ちました。猫もそのときの火傷で、亡くなったんです」
 千尋が息継ぎもなしに言い切ると、篠田は気まずそうに眉をひょいと上げた。
「それは長池さん、バツ悪いっすね」
「なので、集落の中には、長池の家はないんですよ。川を跨いだ側に、屋根の潰れた家があったでしょう。あれが長池家です」
 来るときに、見た気がする。玲香は思い出しながら、ふと気づいた。いつ、長池家の話になったんだろう。篠田が歴史寄りの話に興味を刺激されたように、少し前のめりになって言った。
「長池石油の人は、その行燈を倒した人の末裔なんすか?」
「そうです。確か、それまでは油谷と名乗っていたんですけどね」
 千尋が言うと、篠田が得意げな顔を作った。玲香は苦笑いを浮かべた。自分だけが知っていると思っていることを披露するときに、よくやる表情だ。篠田は言った。
「なるほど、炭と油っすか。炭谷とか油谷とか、得意分野の名前を取るんすよね」
「よく覚えてらっしゃいますね」
 千尋は嬉しさを隠せないように、少し首を傾けながら笑顔で言った。斎藤が箸を止めて、言った。
「あ、あの。逆向きにするのは?」
 篠田と玲香が怪訝な顔を向けると、千尋が言った。
「祭りまでの日は、表札と靴の向きを逆にします。どの家に何があるか、猫は知っていますから。でも、逆向きになっていると、迷ってしまって入れない。そういう迷信が残ってるんですよ」
「へー、おれらの靴も逆向いてるってこと? ちゃんと見てなかったな」
 篠田が言うと、千尋はうなずいた。
「表札も、今日逆向きにしました。祭りの日が猫の命日なので、過ぎれば元に戻しますけど」
 そう言って笑う千尋を見つめながら、玲香は思った。千尋の落ち着いた口調だから普通に聞こえるだけで、冷静にイメージすると、ずいぶんと変わった風習だ。祭りの意味は、猫の祟りから神様を守ること。つまり、命日に何かが来るということになる。
 食事が終わり、交代で風呂を済ませた後、歯磨きをしている玲香の隣に立った篠田が言った。
「よっす、隣空いてる?」
「どーぞ」
 頭ひとつ分背が高い篠田を見上げながら、玲香は言った。
「わたし、満足したかも」
「何が? 親父さんのこと?」
「うん。いろんな話を総合すると、うちのお父さんって、善人じゃないんだよね」
 歯磨き粉が口の中に残ったままの、ぎこちない会話。篠田は歯を磨きながら器用に笑い声を出した。
「この世に、善人なんかいねーよ。誰かにとって悪人でも、他の人間にとったらダンナだったり、親だったりするんだから」
「篠ちゃん、この旅でめっちゃ賢くなってない?」
「うるせー。これはおれの持論だよ。昔からそう思ってた」
 玲香と篠田は、口の周りが真っ白になったまま顔を見合わせて、笑った。うがいをすると、篠田は言った。
「もういいの? じゃー、明日出る?」
「斎藤さんがいいなら」
 玲香が言うと、篠田は鼻で笑った。
「あんな奴、どーでもいいだろ。ここに埋めてくか?」
 玲香は苦笑いを浮かべた。誰に対する強がりか分からないその笑顔も、言葉も、わたしは嫌いだ。斎藤さんと言葉に出さなければ、後味良く会話を終えられたのに。玲香は『おやすみ』と言って篠田の背中をぽんと叩き、二階に上がった。篠田は、コップを洗うとフックにかけて、鏡を見上げた。九十六年なら、電話とかもないはずだ。記録のほとんどは、紙。残す意思さえあれば、ほとんどのものは文書として残る。篠田は、二階に上がりながら続きを考えた。あの集落史は、あれだけ分厚いのに、社に関する記述が極端に少ない。そして、今日会った人間は、野瀬彩乃、万世、そして千尋だけ。遠くに人影は見えたが、接したのはたった三人だ。それなのに、集落の隅から隅まで知り尽くした気になっている。働きに出ている人間は、どこかのタイミングで帰ってきたはずだ。夕方だとすれば、公民館で調べ物をしていた時間帯だから、見逃しただけかもしれない。篠田は部屋に入り、布団を半分かぶって寝る準備に入っている斎藤の隣に腰を下ろすと、言った。
「今日さ、外出ました?」
「ええ、ちょっと散歩しました。そのときに、女将さんから猫の話を聞いたんです」
 斎藤が言ったとき、遠くで鳴き声がした。篠田は首をすくめた。猫と言えばふわふわの可愛い生き物だが、この集落の中では鳴き声自体が『呪いが続いていることの証明』に聞こえる。斎藤は言った。
「像がでこぼこで、頭が八つに見えるらしいっす。想像したら怖くないですか?」
「なんの話よ」
「はちがしら様ですよ。間に合わせの神様らしいです。造りが悪くてでこぼこだから、頭が八つに見えるって。そんなことあるのかな。見ようによっちゃあ、あるか」
 独り言のように呟く斎藤を見ながら、篠田はスマートフォンを取り出すと、ライトを付けて自分の顔を下から照らした。
「八つに見えるっすか?」
 薄暗い部屋の中では十分に効果があったらしく、斎藤は布団から逃げ出すように後ずさった。布団の端が跳ねて篠田の手にぶつかり、スマートフォンが畳の上に落ちた。篠田が笑っていると、斎藤は体の中にさらに閉じこもるように、身を小さくした。
「か、勘弁してください」
「斎藤ちゃん、結構怖がりだね。ごめん、もうしないっす」
 篠田はそう言って、笑うのをやめた。スマートフォンを拾い上げたとき、点いたままになったライトが壁を照らした。一部、新しく塗り直された箇所がある。篠田は気づいて、ライトを動かした。
「これって、塗り直したのかな? 微妙に色違いますよね」
 斎藤は体を起こし、まだライトを警戒するようにびくつきながら、壁に触れた。
「一回、穴が開いてます。塞いで塗ったんじゃないですか」
「へー。まあ長いこと使ってたら、あるか」
 篠田は、色の違う部分がよく見えるように、テレビ台を少しずらせた。積もった埃の中にピンク色のキーホルダーが見えて、斎藤の肩を叩いた。
「なんか落ちてる」
 篠田は斎藤の注目を引いたことを確認してから、それを拾い上げて埃を払った。キーホルダーには『リネン』と書かれていた。その先には、黒い鍵がついている。トヨタのエンブレム。
「おい、これって」
 篠田は呟いた。斎藤も同じことを考えているように、目を丸く見開いていた。篠田はテレビ台を元に戻して、鍵を畳の上に置いた。斎藤は忙しなく瞬きしながら、言った。
「カ、カローラバンは、リネンを運ぶのに使ってました」
作品名:Frost 作家名:オオサカタロウ