Frost
斎藤の独り言を振り切るように、篠田が後部座席に乗り込み、玲香は自然に助手席に乗り込んだ。斎藤は後部座席に頭から不器用に乗り込んで、ドアを閉めた。千尋はゆっくりとアルトを走らせ、学校跡を指差した。
「ここの住民は、私の年代だと皆あそこで学んで育ちました」
玲香がうなずきながら千尋の横顔を見たとき、その切れ長の目が一度玲香の方を向いた。千尋は、玲香の頭に浮かび上がっている疑問を掬いとるように、前を向いたまま言った。
「私は、四十四歳です。野瀬の双子は九歳下ですが、そのもうひとつ下の世代が最後で、廃校になりました」
玲香は、千尋の横顔を見つめた。野瀬の双子もそうだったが、年齢より若く見える。廃墟になった学校は小規模だが、鉄で作られた遊具が錆びついているのが、遠目に見えた。都会で育った身には、想像もつかない。篠田も同じで、育ったマンションの一階はコンビニ、繁華街から徒歩五分の都心で育った。公民館は鉄筋コンクリートの立派な建物で、駐車場には軽トラックが二台停まっているだけだった。篠田は周辺を見回しながら、言った。
「勝手なイメージなんすけど。意外に、畑仕事してる人とか、いないっすよね」
千尋は軽トラックの隣に車庫入れすると、丁寧な仕草でサイドブレーキを押し込みながらうなずいた。
「ここは、何も育たないんですよ。なので、みんな外に働きに出てます。裏の森に栄養を全部取られちゃってるって、昔は言ってましたね。木だけは採れるので、うちは炭焼きをやってました」
千尋の言葉に、篠田はヘッドレスト越しに顔を覗き込むように、少しだけ身を起こした。
「それで、炭谷なんですか?」
「そうです、仕事が名前になったんです。合理的でしょ」
バックミラー越しに目が合い、篠田はなるだけ軽くならないよう、少し険しい顔を作ってから笑顔に変えた。公民館の入口には、『会館』と彫られた銘板がかかっていたが、その上には削られたような跡があった。千尋は言った。
「ここは昔、八頭集落と呼ばれていました。社に祀られている神様の名前で、八に頭と書きます。ただ、私たちがその神様を名乗るのはおかしいということで、銘板からは削り落としたという歴史があります」
公民館には鍵もかかっておらず、やや埃っぽい空気をかき分けながら、千尋の後について、三人は歩いた。斎藤の足音だけやや間隔が短く、忙しない。玲香は足を下ろしたときに微かにしなる木の音を心地よく感じながら、少し深く息を吸い込んだ。ここで生まれたわけではないのに、どこか懐かしい。集会場と書かれた大広間を通り過ぎ、資料室と書かれた札が飛び出している部屋の扉を開いた。
「ちょっと埃っぽいですけど。歴史を調べてらっしゃるんでしたら、ざっくりとまとめた物があります。各々の時代について調べたい場合は、深緑色の冊子を見ていただければ、ほぼ把握できるかと」
『ざっくりとまとめられた本』は八頭集落史という表題がついていて分厚く、片手でかろうじて持てるぐらいの大きさだった。玲香がそのボリュームに驚いて目を丸くしたとき、篠田は言った。
「九十年代にあった出来事とかも、書かれてますか?」
玲香の心臓がぎこちなく跳ねて、固く結んだ唇に伝わった。篠田は集落史を開き、昭和後期の民宿炭谷の写真が載ったページを開いた。まだ看板の字は新しく、軒先にお面を手に持った少女が立っている。
「これが、八八年か。お面持ってますね」
篠田が言ったとき、千尋はくすりと笑った。
「これは、私なんですよ」
そう言って目を伏せる千尋の、少し恥ずかしそうな表情を察した篠田は、それ以上聞くことなく、ページをめくった。その手が偶然、九六年の正月で止まり、玲香の心臓がまた躓いたように跳ねた。斎藤も少し身を乗り出して、民宿炭谷の前で撮られた記念写真を眺めた。隣の空き地も写り込んでいて、紺色のハイラックスサーフが停められている。
「これ、あれですか。今、ブルーシートがかけられてる」
斎藤が言い、玲香は思わず篠田の目を見た。飄々としていて、何を言ってもするりとかわしてしまう。しかし、それはあくまで、『商品』が相手のときだ。斎藤の薄くなった頭を見下ろした篠田の目は、玲香が恐れている『狩る側』の目そのものだった。それは、気まぐれに映りが悪くなったテレビのように一瞬だったが、千尋もその表情の変化に気づいて、苦笑いを浮かべた。篠田は誰とも目を合わせることなく、九六年の正月の記念撮影で被写体になった、二人の少女に視線を向けた。ひとりはお面を持って行儀よく立っているが、もうひとりはその肩に寄りかかって、手にはお面も持っていない。
「この二人は、さっきお会いした野瀬さんですかね?」
「そうです。お行儀のいいのが彩乃で、お転婆なのが万世です」
千尋は当時を思い出すように、少しだけ歯を見せて笑った。玲香は、その写真に少しだけ顔を近づけた。斎藤の言っていた、ブルーシートのかけられたハイラックス。この写真ではタイヤの空気も入っていて、まだ新車に見える。篠田は玲香の横顔をちらりと見てから、千尋に向かって言った。
「これ、見せていただけるの、マジでありがたいです。ちょくちょく見に来てもいいっすか?」
「ええ。祭事が明後日あるのですが、ご興味があるなら何泊かされますか?」
「いいんすか? 玲ちゃん、どーする? 斎藤さんも、どーでしょ?」
篠田は、熱に浮かされたように言った。玲香は小さくうなずいて、斎藤の方を向いた。明確な表情は浮かんでいなかったが、玲香を一瞬だけ見ると、篠田に視線を向けてはっきりとうなずいた。
「はい。調べ物も、手伝います」
千尋は全員の合意が取れたことで少し気が抜けたように、息をついてから笑顔を見せると、玲香に目を向けて言った。
「部屋は二つありますので、分けて使って頂ければ」
玲香がうなずいたとき、篠田が指をぴんと立てて言った。
「ちなみに、一泊おいくらっすか?」
玲香は苦笑いを浮かべたが、内心は本当の笑顔だった。こういうことをあっさりと聞いてもらえるのはありがたい。千尋は口元に手をやって笑うと、言った。
「部屋あたり、夕食付きで三千五百円頂いてます。二部屋お使いでしたら、三泊四日ですと二万一千円ですね」
「三人いますよ」
篠田が話の落ちのように、斎藤を指差した。千尋は小さくうなずくと、続けた。
「部屋単位で頂戴する形で、大丈夫ですよ。こうやって興味を持って来ていただけるのは、ありがたいことです。このまま調べ物をなさるなら、夕方頃に迎えに上がりましょうか?」
篠田は首を傾げたが、集落史を閉じてテーブルの上に置いた。
「いや、時間あるし、いーかな。あ、今払っときますよ」
篠田は、棘のような突起があしらわれた下品な長財布を取り出した。千尋が、今までに見たことのない動物と出くわしたように目を丸くし、玲香が言った。
「篠ちゃん。その財布ほんと、本人より目立ってるから」
「そう? 棘があったら落とさねーだろ」
「お代は、出発されるときで結構ですよ」
千尋が言い、篠田は肩をすくめて財布をポケットに戻した。千尋は、三人が出てから資料室の電気を消すと、言った。