火曜日の幻想譚 Ⅴ
512.憧れと現実
彼は今まで、いろいろなバイトをしてきた。
しかしなぜだろう。仕事の上で、セキュリティというものをそれほど気にしたことがない。重要な顧客データや、社外秘の情報なんてものには、基本的に触らずに仕事を続けてきた。
だが、今までそうでなかったものが、今後もそうではないとは限らない。正社員にならないかと声をかけられる可能性もあるし、そうでなくとも重要なデータを扱う仕事につくかもしれない。
実は、今のうちにやっておきたいことが、彼には一つだけあった。カフェでパソコンを広げて仕事をすることである。重要なデータを扱うことになったら、とてもじゃないが、そんなことは不可能だろう。画面は店員やお客さんに見られ放題だし、ああいう場所はWi-Fiの安全性も低いと思われる。彼は、今のうちにその練習をしようと思い、ノートパソコンを片手に近所のカフェへと出掛けることにした。
もともと彼はあまり外で食事をしない性質だった。そのため、今回のカフェもネットで事前に検索して調べたもので、一度も行ったことがない店だった。目的地にたどり着いた彼は、深呼吸をしてから店に入る。
「いらっしゃいませ」
思わずキョロキョロしてしまう。どうしていいか分からない。
「お客さま。こちらでご注文を承ります」
来るのに慣れていないせいだろうか、レジすら目に入らない。覚束ない足取りでようやくレジの前へ行くと、店員に話しかけられる。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「あ、え、えーと、コーヒーで」
「サイズはいかがいたしましょうか」
「えーと……」
斜め上を見上げると、ショートだのトールだのよく分からない単語が並んでいる。「ふつう」はないのか。S、M、Lではいけないのか。そうだ、今回はカフェで仕事をするわけだ。あんまり少なくても困る。だが多すぎても問題だ。考えた末に彼は店員に言う。
「ちょっとばかり多めぐらいで」
「分かりました。グランデですね」
こんなやり取りが、気が遠くなるほど長く続く。隣のレジでは、常連と思われるお客がスマートに注文をこなしていく。ようやく自分の注文が終わって支払いをする。どうやら隣のカウンターに出てくるらしい。
「…………」
「あ、それ、私のです」
自分で注文したものが分からなくて、他人の物を取ってしまいそうになる。まごまごしていると、注文してくれた店員さんが声をかけてくれる。彼は頭をかきながら自分の注文を受け取り、ようやく席についた。
この時点で、彼はもう帰りたくなっていた。カフェでの作業に憧れはあったが、まずカフェ自体に慣れていないのだ。しかし、ここであきらめては今日の目標は達成できない。コーヒーを飲んで気を静めた彼は、ノートパソコンを開き、果敢に仕事をしようと表計算ソフトのファイルを開く。
「…………」
落ち着かない。カフェが、他人のいる環境が、こんなにも騒々しいものだとは思わなかった。全くもって集中できない。取りあえず再びコーヒーを飲んでパソコンに集中するが、ものの数秒で途切れてしまう。
気付くと多めに頼んでおいたコーヒーは空になっていた。時間を見ると10分もたっていない。もちろん仕事は全く進んでいない。
「カフェで仕事をするにも向き不向きって、あるんだな」
彼は予想外の教訓を携えて、すごすごと家へと帰るしかなかった。