火曜日の幻想譚 Ⅴ
517.押しボタン
会社の帰り。僕は普段どおり、バスに乗って家路についていた。
いつものようにバスは、大きめの十字路に差し掛かろうとする。ここで右折をして、ちょっと行けば僕が降りるバス停だ。いつも僕は、この十字路を曲がっている最中に、降車ボタンを押すことにしていた。理由なんかない、ただ、何となくそれが心地良かったから。そこそこ難しい右折という作業の最中なので、運転手さんは迷惑かもしれないが、僕はそこで降車のボタンを鳴らすのが好きだったのだ。
だが、今回は事情が違った。スマホでやっているゲームがいいところで手が離せなかった。また、十字路が空いていたという不運も重なった。バスはあっという間に十字路をすり抜け、バス停を通り抜けようとする。そこで僕は事態にようやく気付き、あわてて降車ボタンを押した。
結果として、バス停の数メートル前での降車の知らせとなった。運転手さんもこれにはたまらない。急ブレーキを掛けて止まり、ドアを開けると僕をにらみつけ、
「ちょっとボタンを押すの遅いんで、次からは早めにお願いします」
と苛だった口調で行った。
確かにもっともだ。だから僕も、普段は十字路で押しているんだから。でも、バス停とはいえ道路上で運転手さんと口論を始めるほど、僕も変人ではない。
「すんません。気をつけます」
通り一遍の謝罪で終わらせて、バス停を降りようとした、そのときだった。
不意に僕らの前方で、爆音が響き渡る。何かがぶつかった衝撃音。僕らが思わず前を見ると、対向のトラックがこちらにはみ出し、先ほどこのバスを抜かしていった乗用車と、激しく衝突しているのが目に入った。
「…………」
運転手さんと僕は、思わず顔を見合わせる。
「ま、まあ、とにかくもう少し早めにね」
運転手さんは多少柔らかく言い直して、僕はもう一度頭を下げてバスから降りた。
でも、家に帰っても妙な気分だった。あのタイミングで僕がボタンを押していなかったら、やっぱりバスは事故に巻き込まれていたことになるだろう。そう考えると手が震えてしまう。ちょっと押すタイミングが違ったり、あきらめて押さなかったりしていたら、今頃、バスは恐ろしいことになっていたかもしれないのだ。
事故のせいで呼ばれてきたであろう、サイレンの音に包まれながら、そんなことを考えていると、急にスマホが震えだした。画面には、親友の太田の名前が表示されている。
「もしもし。うん。どした」
「麻衣が、事故にあって……」
「え」
「さっき、病院で息を引き取ったって」
「……事故った場所は?」
「うん。おまえんちの近く」
通話はそれっきり切れた。
僕は失意のどん底にたたき落されていた。恐らくバスの身代わりになった乗用車に、親友の婚約者が乗っていたんだろう。自分はこれから、親友に人殺しとののしられなければいけないのか。目の前が真っ暗になりながら、僕は家を飛び出した。