火曜日の幻想譚 Ⅴ
522.誘蛾灯
8月。夏も本番という季節。
彼女から別れを告げられた僕は、すっかり暗くなった夜道を一人とぼとぼと歩いていた。笑顔、泣き顔、怒った顔。彼女のいろいろな表情が頭に思い浮かんでは消えていく。でも、もうそれらを見ることはかなわないんだ。そう考えると胸がざわついて、思わず立ち止まってしまう。
「…………」
ほうと息をはき、周囲を見つめる。何の変哲もないいつもの帰り道だが、今の僕にはどうしても色あせて見えてしまう。
少し先に、コンビニエンスストアがあった。めったに入ることがないせいか、ついその存在を忘れていた店。暗い夜道よりは、明るい店内のほうがまだ救いがあるかもしれない。そう思った僕はそこへと向かうことにした。
相変わらず晴れない足取りで歩き、ストアの敷地内へと入る。そのとき、ふと聞こえてきた雑音のような音。
「ばちん!」
音の出どころは探すまでもなかった。入口の手前に設置してある誘蛾灯、そこに羽虫が迷い込んで焼かれたのだ。
そのできごとに対して、僕は何にも心が動かなかった。われわれ人類にとって、醜い虫が一匹退治されただけに過ぎないのだ。そこに何か感興を催せというほうが無理に決まっている。それ故、僕はその誘蛾灯に見向きもせず、明るい店内へと入っていったのだった。
ついやけを起こし、甘いものやスナック菓子を買いまくって店を出る。しかし家に帰って食べる気にはなれない。どうしようかとしばし思案する。そうだ。みっともないけど、ここで食べていくか。恋に負けた無様な男にお似合いの場所だろう。そんな自嘲的な気分で駐車場のブロックに腰を下ろした。
チョコやスナック菓子を黙々と頬張る。味わうことなどなく、ただ機械的に口に運ぶだけ。おなかが膨れれば、多少は失恋の痛みも薄らぐだろう。そう思ったときだった。
「びしゃっ!」
「びちん!」
「ばしゅっ!」
先ほど、少しだけ気に止めた誘蛾灯。そこへ相変わらず虫たちが決死のダイブを繰り返していることに気が付いた。
空腹が紛れたからだろうか、それとも、一匹だけでなく次々と飛び込んでいく彼らにある種の哀愁を感じたのだろうか。僕はようやく、妖しい光に群がり次々と焼けていく彼らが、どこか自分と重なることに気が付いた。
「結局僕も、誘蛾灯に誘い込まれた一人だったんだろうな」
そう、ミクロな視点で見れば、愛する人を失うのは悲劇だ。でもマクロな視点で見れば? 女性に別れを告げられた男なんか腐るほど存在する。ごくごくありがちな話なのだ。誘蛾灯に次々と引き込まれ、ばちん、ばちんとやられていくあの羽虫たちのように。
「いっそ、命があるだけ、マシと思おうか」
多少気分が晴れた僕は、羽虫たちに心の中で感謝しながら家路についた。