火曜日の幻想譚 Ⅴ
541.しばらく
かつて勤めていた会社に、安川さんという方がいた。
この安川さん、最初は取り立てて言うことなどない、至って普通の人だと思っていた。けれども、ある日、ちょっとおかしい人であることに僕は気付いてしまった。
その日、僕と安川さんは、午後から打ち合わせをした。現状の報告や、今後の仕事の予定などを話し合い、15時過ぎにお互い仕事に戻る。そして夕方。定時に退社をした際、数時間前まで打ち合わせをしていた安川さんと、ちょうどエレベーターでばったり出会ったのだ。まあ、同じ会社に勤めていれば、しばしば起こることだろう。だが、このとき安川さんは、奇妙なことを言ったのだ。
「おや、田所くん。しばらくぶりです。ちょっとこれから飲みに行きませんか」
安川さんは、ほんの数時間前に顔を合わせたのを忘れたのだろうか。それはともかく、飲みに行くのは別に構わない。お誘いにのって一緒に店に入ると、今日の打ち合わせの話も普通に飛び出してくる。どうやら、今日、僕らが打ち合わせをしたことはちゃんと覚えているらしい。
単なる言い間違いかと思ったが、その翌朝も安川さんにエレベーターで偶然出会った。そのときも安川さんは、
「おっ、田所くん。しばらくですね。昨日はありがとうございました」
という口ぶりなのだ。「しばらくですね」と、「昨日」が完全に矛盾している。僕はエレベーターが開くまで、曖昧な笑みで安川さんをやり過ごすしかなかった。
同僚にこの話をしてみると、安川さんのこの「しばらく」は、みんなもおかしいなと思っていたようで、あいさつのたびに調子が狂うとか、なんとなくからかわれているようだという話が聞けた。別にそれが口癖なら構わないけれど、お客さんや取引先にもこの「しばらく」を発動させるので、時々はらはらするという指摘もあった。
そうこうしているうちに、安川さんはいつの間にか会社を辞めていた。「しばらく」の件でトラブったのか、それとも別の事情によるものなのかは分からない。
それから数年の時がたち、僕もその会社を辞めて別の会社に勤めることになった。その初出勤日、緊張しながら初めてのオフィスに足を踏み入れると、そこになんと安川さんがいた。安川さんは私の入社を既に知っていたようだったが、その感激っぷりはそれこそ異様だった。
「しばらく、しばらくだったね」
そう言って、顔を見るなりボロボロと号泣しだす。そしてくしゃくしゃの泣き顔で僕の手を取り、砕けんばかりに両手で握りしめてくる。しまいには抱擁までしてくる始末。もう戦争から生きて帰ってきたのかと思うくらいの熱烈さだ。
多分、安川さんの時間の感覚は、他人のそれとは違うのだろう。彼にとっての数時間は、他の人の数カ月に相当するくらい長いのだ。僕はそれを理解するとともに、もし、この人と一緒の幼稚園で、次の再会が老人ホームだったら、この人はどれほど感激してくれるだろうかという、少々失礼なことを考えていた。