火曜日の幻想譚 Ⅴ
554.妻の鼻毛
最近、妻の鼻毛が伸び盛りだ。いや、伸び盛りなんてもんじゃない。ひげと見紛うような生やしっぷりだ。
妻だってパートに出ているし、買い物とかにもよく行く。それなりに人前に出る生活を営んでいるのに、もう女を捨ててしまったのだろうか。いや、そうとは思えない。30代、まだまだ女盛りと言っていい年だ。恐らく、まだ妻は女を捨ててはいないはず。
今日も彼女は朝、ちゃんと鏡で自分の顔を見ていた。すなわち、自分の鼻毛に気づいてるはず。なのに切ったり抜いたりすることはない。これを夫の立場として、どう捉えればいいのだろうか。
いっそのこと、指摘してしまったほうがいいのだろうか。しかし夫とはいえ、こんなデリケートなことを指摘していいものだろうか。
ここまで考えて、とあることを思い出す。
そうだ。昔の偉い大名に、わざと鼻毛を伸ばしていた人がいた。確か幕府の警戒をかわそうとして、あえてバカ殿を演じるためにやっていたはず。妻もパートの人間関係で悩んでいるようだし、きっとバカを装ってお局的な人からのイビリを、やり過ごしていたりするんじゃないだろうか。
そう考えると、やっぱり彼女がいじらしくなってくる。鼻毛のことは気にせず、夫として妻のためになるべく尽力しようじゃないか。
そうやって鼻毛のことには触れずに生活していると、妻から「大事な話がある」と切り出された。何かと思えば、目の前に出てきたのは離婚届。どこか腑に落ちないまま押し切られて離婚してしまったら、彼女はあっさりと再婚した。
再婚相手のことをそれとなく聞いてみる。すると、鼻毛が伸びている女が好みという変わった男らしい。とんでもないやつもいるもんだという驚きと、そんなやつに嫁を取られたのかという複雑な思いと、どうやらバカ殿として担がれていたのは俺のほうだったかという悔しさとで、しばらく立ち直ることができなかった。