火曜日の幻想譚 Ⅴ
558.まぶたの裏
彼女は物心がついた頃から、大抵のときは目をつむっていた。
まぶたの裏にできる、もやもやとした模様が面白かったからである。目をぎゅっとつむると暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるあの色とりどりの模様、一説にはまぶたの裏の毛細血管だと言われているが、を見ることがとにかく面白くてたまらなかったのだそうだ。
だが、そのせいで彼女の学生時代は苦い記憶に包まれている。目を開けていなければならないところで目をつむっていれば、やはり先生に怒られる。クラスメイトも面白がってからかってくる。彼女はますますまぶたの裏の世界に逃げ込むようになる。そんな悪循環の中で生活を送っていたのだ。
だが、そんな不幸な彼女にも転機が訪れる。高校でのある日の美術の授業で、教師とこんなやり取りを交わしたのがきっかけだった。
「君、寝てないで絵を描きなさい。このままでは留年だぞ」
「いえ、寝ていません。私はまぶたの裏の模様を見るのに忙しいのです」
「なぜ、そんなものを見ているんだ。授業のほうがよっぽど大切だろう」
「この美しい模様を見ていることのほうがよっぽど大切だと思います」
「ふむ。そんなに素晴らしいのなら、それを絵に描いてみんなに見せればいいじゃないか」
美術教師は後に、この発言が半ば冗談だったことを認めている。だが、彼女はこの言葉で一念発起し、ものすごい勢いで絵を描き出した。時折目をつむって模様を確認しながら。
彼女の言ってることがうそではないと理解した教師は、彼女に画家の道を進める。君がまぶたの裏をそれほど愛しているならば、それを世界に広めなさい、と。
こうして彼女は画家の道を歩むことになったが、前途は多難だった。暗闇をみみずがのたくっているだけだと酷評され、みんなが目を閉じれば見られるものを描く意味はあるのか、と散々やゆされた。
しかし、ここで彼女に第2の転機、結婚が訪れる。配偶者は、先の美術教師以上に彼女の理解者だった。そして、彼女のまぶたの裏を描く作業、それを美術ではなくスポーツという形に昇華させたのだった。
現在、このスポーツはクローズド・アイズ・ドローイングという名で、100以上の国で親しまれ、行われている。ペンと紙を用意して、目をつむりまぶたの裏の模様を描くだけ。シンプルさゆえに幼稚園児から老人まで、誰しもがこの奇妙なスポーツに熱中している。
先日、創始者の彼女は86年の人生に幕を下ろした。葬儀は盛大に執り行われ、誰もが彼女の死を悲しんだ。そんな彼女の墓碑にはこう書かれている。
『偉大なるクローズド・アイズ・ドローイングの創始者、この地で大好きなまぶたの裏を好きなだけながめている』