火曜日の幻想譚 Ⅴ
561.幼少期のできごと
彼は悩んでいた。なんで自分はこんなにずうずうしく振る舞えないのだろうかと。
もっとずるくてもいいはずだ。もっとうまく立ち回れてもいいはずだ。そう思うのだが、生来のお人よしなのか、気が小さいのか、思うようにそれができない。
その理由は何なんだろうか。深く記憶を探ったら、一つだけ、思い当たることがあった。
幼少期に、母とスーパーへ買い物に行ったときのこと。お菓子がほしいと思い、取ってきてかごに入れたら、全然違う人のかごだったことがあった。
「あら、僕、違うわよ」
その人はそう言ってかごの中のお菓子を返してくれる。彼は、お菓子を返されてキョトンとした。そして、あらためてかごに入れようとしたら、そこに違和感。服装の違いでやっとお母さんではないことに気付く。
顔が真っ赤になる。どうしようもなくなってお菓子を手にその場を駆け出してしまう。別によくある勘違いなのに、この世が終わったかのような恥ずかしさ。
ようやく母を見つけるが、怖くてもうお菓子をかごに入れる勇気がない。結局、お菓子をあった場所に戻してくるように言われ、その通りにするしかなかった。
冷静に考えれば、今度はちゃんと母であることを確認しているのだ。お菓子をかごに入れていいのだが、先ほど間違えたことによる妙な引け目や罪悪感みたいなものが、かごに入れるのをとまどわせていたのだろうと思う。
思えば、あそこが小さな運命の分かれ道だったような気がする。あそこでかごにお菓子を入れられるぐらいのずぶとさがあれば、もう少し何かが変わっていたんじゃないだろうか。間違えたことは過ぎたことで、もう何の関連性もないのにお菓子をちゅうちょしてしまった。何かそこで奇妙な論理というか、不合理な思考が芽生えてしまったような気がするのだ。
しかし、それは幼少期でのことだ。当時からそうだったということは、もしかしたら生まれついたときからこういう人間だったのではないかという気もする。結局わけが分からなくなってしまった彼は、ため息をついて、そんな自分と今後もうまく付き合っていこうと思う他、なかった。