火曜日の幻想譚 Ⅴ
570.消しゴムのカス
あれは、確か小学校3年生のころだった。
授業中、黒板の内容をノートに書き写していると、背中に違和を感じた。何かが当たるような感覚。うっとうしいなと思いながら渋々振り向くと、広瀬くんが僕の背中に消しゴムのカスを投げて遊んでいた。
彼は、授業態度が悪いことで有名だった。まともに授業を聞いていた試しがない。それどころか、こんなふうにちょっかいをかけて真面目に授業を聞いている子の妨害をしてくるのが常だった。僕らのクラスは決して真面目というわけではなかったが、それでも広瀬くんの妨害を迷惑に思う子が多くいたように覚えている。
広瀬くんは、振り向いた僕と目が合うとにやりと笑い、やっぱり消しゴムのカスを投げつける。授業を聞く気は全くないのだろう、遊んでくれそうな相手を見つけたとばかりに注意を自分に引きつけようとしてくる。
授業を聞きたい僕は広瀬くんを無視して前を向き、再び板書を写す作業に精を出す。背中に何個かまた消しゴムのカスが当たったような気がしたが、やがてその感覚は消えうせた。
それから数日後。
授業中、それは突然起こった。クラス一の秀才である斎藤くんが授業の最中、いきなり立ち上がり広瀬くんのもとに駆け寄ると、激しく顔を拳で殴りつけたのである。
「あぅや、ごお、ごめ……」
あわてて謝ろうとする広瀬くんの言葉もろくに聞かず、斎藤くんは殴り続ける。しまいには床に押し倒し、馬乗りになって拳を打ち付ける。頬ははれ、鼻血が吹き出し、広瀬くんはものの数分で全く違う顔になってしまった。
僕らは、そこでようやく斎藤くんを止めなければということに気がついた。あまりに突然のことだったし、秀才で学級委員長でもある斎藤くんがそんなことをするとは思わなかったから、すっかり出遅れてしまったのだ。恐らく先生も同様だったのだろう。僕らとほぼ同時に二人の間に割って入り、どうにかその場は収まった。
しかしこの事件、終わった後のほうが大変だった。広瀬くんは命に別条こそなかったが、間違いなくこの一件が理由で突然引っ越してしまった。大人になった今でも、どこで何をしているのかよく分からない。
斎藤くんのほうはというと、やはり先生に叱られることになった。先生も広瀬くんの授業態度が悪いのは重々承知をしていたので、かなり言葉を選んで注意をしたらしいが、斎藤くんは納得がいっていないようだった。結果、彼は次第に反抗的になり、勉強も手につかなくなって、中学卒業後、あまり評判のよくない高校に進学した。
最初、僕は斎藤くんに同情する立場だった。やり方は間違っていたかもしれないが、彼は僕らの思いを代弁してくれた。そんな彼がなぜ一人だけ怒られて、秀才の座から降りなければならなくなったのか、そう思い憤ることすらあった。
でも、大人になって自分の子どもを持つことになり、わが子が授業が聞けないような特性の持ち主だということが分かると、広瀬くんの気持ちも考えなければならないと思うようになった。広瀬くんがそういう人間だったのかは分からないが、可能性は大いに有り得る。もちろん、だからといって授業中、人に迷惑をかけてもいいことの免罪符にはならないのだけれど。
広瀬くんと斎藤くん、二人がその能力を遺憾なく発揮できた世界線はどうすればたどれたのだろうか。ただの傍観者でしかなかった上に、頭の悪い僕にはそれは分からない。けれど、彼らが少年期のわだかまりを捨てて、今を幸せに生きていてほしいとは切に思う。