火曜日の幻想譚 Ⅴ
574.悪魔か天使か
「うーん……」
深夜。社員がみんな帰宅した後、私はこの四半期のデータを暗い顔でながめていた。だが、その芳しくない数字をにらみ続けたところで、何かが変わるわけでもないことは、自分でもよく分かっていた。
「うーん……」
うめき声しか出ない。このままではまずい。なんとかしなければ……。冷めきったコーヒーをすすっても、打開策は見えてこない。どうしたもんか、そう思った瞬間のできごとだった。
突如、目の前の空間にポワンという音とともにそいつが現れる。
「よぉ。また会社が危ねえみたいだな」
そいつは、黒い全身タイツのような服装で、フォークのような武器を持っていた。頭の左右にとんがった耳が伸び、尻からトランプのスペードのような尻尾も生えている。
「なぁ。俺のこと、忘れちゃいないよな」
もちろん忘れるわけはない。こんな典型的な出で立ち。こいつはいつも私の困った時に現れては、なれなれしく語りかけてきやがる悪魔だ。
こいつと初めて出会ったのは、私の大学受験の日だった。大雪で停まった電車内にいる私の前に、突然、現れたこいつはいきなり契約を迫ってきた。
「電車、進むようにしてやるから、代わりにおまえの魂をくれよ」
こいつは、こんなことを言い出して得意げに笑う。だが、その日の試験は、第一志望ではない。それにちゃんと連絡をして、遅延証明をもらっておけばどうにかなるはずだ。魂と引き換えにするほどでもないだろう。なんて考えていたら、無事に電車は動き出した。
それ以降も、私がピンチになると、こいつはいきなりポワンと現れて、現状の打開と引き換えに魂をくれと持ちかけ、いつも堕落させようとしてくるのだった。
「また会社が危ないんだって? もう何度目だ? なあ、そろそろ契約する気になったんじゃないか?」
「…………」
私は何も言わなかった。深夜、森閑としたオフィスで、目の前の悪魔はどうだとばかりにニヤリと笑う。どうするか迷っているとでも思っているのかもしれない。しかし、こいつが現れた瞬間から、私の答えは決まっていた。
「……もうちょっと、頑張ってみることにするよ」
私の返事を聞き、悪魔はつまらなそうな顔で煙の中に消えていった。
悪魔くんよ。
人のピンチに駆け付けるその姿勢は悪魔としては正しい。不安にかこつけて魂をいただこうとするのもいいだろう。だが、君はやりすぎてしまった感がある。ピンチの時に駆けつけ過ぎたんだ。
気付いているだろうか。君が駆けつけてくるそのたびに、私はピンチを切り抜けてきた。一度として失敗をせずに、だ。
大学受験の日からそういう人生を送ってきた私が、今回のピンチで君を見かけてどう思ったか、悪魔の君は想像がつくだろうか。
私は、今回もどうにかなるだろうと確信した。今まで君の手を借りずにやってこれたんだから、今回だってそうに違いない、とね。
今の君は、もうピンチのときに出てくる悪魔ではない。活路が開けた時に、光とともに降りてくる天使のように見えているんだ。
確かにピンチはピンチだ。そういう意味では火の手はそこここで上がっている。だが、ちゃんと問題点も私の中では浮き彫りになっているんだ。私はそれを一つずつ片付けていけばいい、それだけなんだよ。
それに、だ。
駄目だったとしても、自分で精一杯やったほうが、悔いはないだろう? ここまできたらそうは思わないかい、いささか詰めの甘い悪魔くんよ。
次に会うのはいつか分からないけれど、今度、会ったらお礼の一つぐらい言うのもいいかもしれないな。そう思いながら、私は帰宅の準備を始めた。