火曜日の幻想譚 Ⅴ
585.地面の色
小学校の頃、校庭で写生をしたことがあった。
校庭のど真ん中、隅っこ、校舎裏……。みんな、学校のあちこちへと散らばり、自由に風景を画用紙にスケッチしていく。その作業がだいたい2時間位。
その後、完成した子から水彩に取り掛かり、全員、今日1日で完成させるといったスケジュールだった。
僕も、友人たちと一緒に校庭の一角に腰を掛け、そこから見える大きな校舎の全景と、その中に規則正しく並んでいる校舎の窓、そしてその裏に見える青い空を、鉛筆でていねいに描いていた。
窓の奥にあるまとめられたカーテンや、古くなった校舎のヒビ、流れ行く雲なんかもていねいに写生した僕は、スケッチの時点で自分でも納得の行くものができたという実感を、このときにつかんでいた。
これならばもう、色を入れてもいいだろう。そう思って、絵の具やパレットを取り出す。ちょうど良い頃合いだったのか、周囲の友人たちも、鉛筆から絵筆に持ち替えている時間だった。
色を塗り始めてからも、僕の右手の速度は落ちなかった。モノクロだった画用紙が、生命を吹き込まれたかのように色をそなえていく様子に、僕は有頂天になって筆を走らせる。
だが、そのとき、ちょっとしたアクシデントが起こる。校舎の近くに花壇があるのだが、その花壇を塗る際、ぽたりと筆から茶色い絵の具が滴り落ちてしまったのだ。
茶色は画用紙の校庭部分にべったりとこびりついている。だが、校庭の色は端的に言えば灰色だ。僕は、仕方がないとばかりにそれを絵筆でのばし、乾いたあとで上から灰色を塗ろうと思ってしばらく放っておくことにした。
このとき、ちょうどチャイムが鳴り、給食の時間となった。
給食を食べ終え、僕らは教室で残りの作業を進めていく。実際の光景が見られなくなった僕は、にわかに作業の速度が遅くなり始めてしまう。
あれ、ここの色はどんなんだっけ。ここの形、本当にこれで合ってたっけ。さっきは首をすぐ上げれば見えたものが、今はもう見えないと思うと、とたんに自信がなくなってくる。
遅々として進まない作業。周りの子はどんどん描き終えて、先生に見せに行く。僕は自分だけがどんどん取り残されていく恐怖に押しつぶされ、先ほど、茶色をこぼしてしまった校庭を、そのまま同じ茶色一色で塗りつぶしてしまった。
そうこうしている中に、授業時間は終わり、一休みして僕らは帰りの会をやる。既に描き終えた人は帰って良いし、そうでない人も、先生に見せて合格をもらえれば帰って良いということになった。
僕は焦ってさらに絵筆を動かすが、どうにもうまくいかない。うまくいかないまま、どうにか画用紙を塗り終えて先生に見せる。しかし、当然のように先生は合格をくれるはずがない。
一人、二人とクラスメイトは合格をもらって帰っていく。もう残るは数人。僕は焦りと動揺で絵を描くどころじゃないのを、無理に絵筆を走らせる。
しかし、これだけ頑張ったのに、他の子は帰ってしまい、教室には僕と先生だけが取り残されてしまった。
でも、僕は何となく、次、先生に見せれば合格するような予感を感じていた。これまで先生に指摘されたところは全部直したし、駄目なりにどうにかまとめ上げた、という思いがあった。
僕は、最後の望みをかけて、先生に絵を見せに行く。
先生は僕の絵を見て、しばし考え込んで言った。
「地面の色が、ちょっと違うね」
そう言われた瞬間、僕の目から涙があふれ出した。僕は泣きながら席に戻り、茶色い校庭を無理やり灰色で塗りつぶしていく。
先生は、なんで泣くのか分からないとつぶやきながら、ベチャベチャにふやけてしまった絵を仕方なく合格にしてくれた。
実は僕自身、大人になってからも、このときの自分が泣いた気持ちが分からなかった。1人が心細かったのか。1人だけ残ってやり直しをさせられたのが屈辱だったのか。絵の具をこぼしてしまったミスがくやしかったのか。どれも思い当たった気がするし、どれも微妙に違う気がする。
でも、よくよく考えてみると、何で先生は地面の色が茶色いことを、もっと早く言ってくれなかったのだろうか、これに尽きると思うようになった。
最後の一人になってから、誰にでも分かるような点を指摘する。そのときが初見ならともかく、今まで何度も見ているのに。それってどうなんだろう。
この先生は多分年齢的にもう定年退職をされているはずだが、今、お会いすることが適うなら、ぜひ当時のことを伺ってみたい。2割が好奇心で、8割が恨みを込めて。