火曜日の幻想譚 Ⅴ
483.喪失
学会での発表に向けて、論文を書いていた。
なかなかに難しい論文で、かなりの月日と労力を費やしたが、ある日出会った一冊の資料により状況を打開する事ができ、何とか完成にこぎつけることができた。
「本当に、この資料さまさまだな」
論文をほぼ書き終え、最後に参考文献を記す段になった僕は、その資料に対する感謝の意を込めて、参考文献の筆頭にいつも以上に丁寧にその資料の題名を記したのだった。
さて、そんな論文を意気揚々と提出して上機嫌だった僕は、数日後に信じられない報告を受けることになった。論文を査読した結果、参考文献に書かれていた例の資料のせいで、不採択になってしまったというのだ。
僕は、詳しく不採択の内容を問いただす。すると、驚くべき返答が返ってきた。あれだけお世話になったあの資料、あんな資料は存在しない、と言うのだ。
そんなわけはない。僕は急いで家に帰り、大事にしまっておいたその資料を取り出そうとした。
「……!」
僕は絶句する。確かにそこに置いといたはずの資料は、存在していなかった。
困り果てた僕は、資料を購入した店に連絡した。資料を購入したのはつい先日、店の人も覚えているに違いない。だが、その希望も無残に打ち砕かれる。店の人は僕のことは覚えていたが、購入した資料のことは覚えていなかったのだ。
僕は食い下がって、財布を取り出した。この中には、資料を購入したときに受け取ったレシートも入っているはずだ。執筆に忙しくて、レシートの整理をしていなかったのを幸運に思いながら、僕は財布の中のレシートを一枚ずつ丹念に見ていく。しかし、そこには資料のレシートだけが跡形もなく消え失せていた。
僕は無我夢中で、資料の話をしたり、見せたりした友人や教授に問い合わせる。しかし、彼らの誰もが資料の存在を覚えていなかった。
それでも諦めきれなかった僕は、残りの人生をその資料の捜索に捧げた。しかし約50年の月日を費やしても、その資料が見つかることはついぞなかった。