短編集113(過去作品)
ブラインド
ブラインド
朝晩少しずつ涼しさを感じられるようになってきたが、まだまだ日中は残暑の残る時期。それでも確実に夜の帳が下りる時間が早くなっていく。
一雨ごとに涼しくなるという不安定な天気が続くと、日中も気温がだいぶ落ち着いてきて、秋晴れを感じられるようになった。
風の涼しさが精神的に余裕を運んでくれる。だからこそ、秋という季節は、いろいろ形容されるのであろう。
「食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋……」
それぞれに満喫できる時期である。これも精神的な余裕がもたらすもので、夜長を楽しむのもよし、短くなった日中を謳歌するもよし。夏の間の疲れを忘れさせてくれるものである。
木下哲夫も、最近はいつも一人でいるので、秋になると寂しさを感じていたが、それでも何かを楽しみたいという気持ちだけは持っていた。とりあえずスポーツでもしてみようと思い、時々スポーツジムに通っていた。
木下は、まだ二十歳代であるが、健康に関しては敏感だった。元々貧血症なところがあるので、夏は苦手である。立ちくらみを起こしたりしていたので、危なくて行動範囲も限られていた。
それでも営業職ということで、表に出ないわけにはいかず、何とかバテルのを最小限に食い止めるように努力していた。普段はそうでもないのだが、どうかすると大量の汗を掻くことがあった。精神的な発汗もあるだろうが、どうやら、溜まっていた汗が一気に吹き出すのではないかと考えるようになっていた。
汗を掻かないのはあまりいいことではない。身体に熱をこめてしまうのだから、身体にいいわけはない。そういう意味では大量とはいえ、汗を掻くのは悪いことではないのだろうが、汗を掻くと一気に疲れが出てしまう。何もできなくなってしまうのだ。
だから、夏はあまり行動を起こさない。汗を掻かない時には貧血という持病も意識しなければならないので、本当に夏は嫌いだった。
夏の時期は、じっとしているのが却って辛い。炎天下を少しくらいなら歩く方がいいくらいである。大量に吹き出す汗を嫌って、どうしてもエアコンに頼ってしまう。今の時代の夏の暑さは、木下ならずとも、誰もが耐えられるものではないだろうが、木下の場合の耐えられないとは、他の人とは若干の違いがあるのだろう。
お盆のあたりまではそれほどでもなかった貧血症が、お盆を過ぎると急に現れてきた。
これも意識をすると出てくるもので、一度貧血を起こして倒れると、
「いよいよそんな時期がやってきたか」
意識していなかったわけではないが、気にしないわけにはいかなくなると、もう頭から貧血への意識が離れなくなる。一旦離れなくなると、貧血になる頻度は遥かに増えて、意識の裏側を支配しているのではないかと思うほどであった。
意識に裏側があるのを感じたのは、その頃からだった。薄々感じていたが、裏側を意識したことはなかった。時々何かがあった時、
――何となく予感めいたものがあったな――
と感じるが、それが今から思えば意識の裏側にあるものだったように思える。
それは常時潜在しているもので、そのことを潜在意識というのかも知れない。
潜在意識という言葉を聞くと夢を思い出すが、突飛な夢というものを見ることもあるが、それはすべてが潜在意識のなせる業だということを、誰かから聞いた。本で読んだものだったのかも知れない。
本は結構読む方ではないだろうか。小説やフィクションというよりも、歴史の本であったり、雑学の本であったりするものが多く、
――これは事実なんだ――
という意識の元に読んでいる本なので、想像力に限りがあるが、その分リアリティに優れている。読んでいてツボに嵌ればまわりが見えなくなるほど集中するのはフィクションである小説であろう。だが、残念ながらそこまでの本には、いまだかつてお目にかかったことがない。
――中途半端な想像力しか与えてもらえないのであれば、却って読まない方がいい――
と考えるようになった。
だが、歴史の本などは、あくまでも事実だと分かっていて読む本である。
「事実は小説より奇なり」
と言われるように、歴史に思いを馳せていると時間を忘れて没頭することもある。歴史には前後があり、前にも後ろにも前後がある。
「原因があって結果がある」
これが世の中の摂理であれば、歴史とは摂理が永遠に数珠繋ぎになったものだ。どこかで必ず繋がっているものがあるから、歴史として成り立っているものではないだろうか。それを示しているのが、現在という時代である。
現代からは、必然的な未来が導き出される。未来に思いを馳せながら歴史の本を読んでいる人もいるだろう。歴史の本を読み漁っている時の木下も、その例外ではなかった。
本を読んで疲れると、気分転換にスポーツジムに行く。事務で身体を動かして、心地よい汗を掻いてサッパリすると、今度は本を読む。新陳代謝が活発になって、充実した気分にもなれるというものだ。
秋が一番好きなのは、そんなバランスが取れることである。夏には身体を動かすことが危険であるということから、読書をしていても、すぐに疲れてしまい、睡魔に襲われることも多かった。
読書は睡眠効果をもたらすというのは、木下にはピッタリと当てはまっている。
疲れた身体では三十分も本を読んでいると、すぐに眠たくなってしまうのだ。それが却って新陳代謝を活発にするのだろうが、起きてからまた本を読む。その間に睡眠が入ることで、何らかの夢を見ることが多い。
覚えている夢が多いのは分かっているのだが、意識してしまうと、完全に起きるまでにほとんど夢の内容を忘れてしまう。奥歯にモノが挟まったようなじれったさが残るが、本を読んでいると、何となく思い出せそうな気分になるから不思議だ。もっと不思議なのは、――起きてから読んでいる本の話を、すでに夢の中で意識していたのではないか――
という意識に駆られてしまうことだった。
本の内容にのめりこむことから、そんな気持ちになってしまうのかも知れないが、それだけではないようだ。寝る前に読んでいた本の内容を、襲ってくる睡魔の中で、無意識に先を想像していたのであろう。それが忘れてしまった夢の中の内容と交差した意識の中で、まるで一度読んだ本の内容であるかのような錯覚を覚えたに違いない。
本を読んで、内容に陶酔してしまうのも、潜在意識が成せる業である夢の中で感じることも、それぞれにどこか共通点があり、まるで歴史の中にある前後の脈絡として意識してしまうのであろう。
――まるで自分自身が小さな歴史を作っているようだ――
夢を見るということ、そして歴史に思いを馳せるということが、自分の精神的な面の大部分を占めているのではないかとさえ思える。
「歴史は繰り返す」
と言われるが、その意識を常に持って、本を読んでいた。
たまに木下は、気分転換に図書館に寄っていた。
図書館には土曜日に寄ることが多かったが、それほど人がたくさんいるわけでもなく、落ち着けたのだ。
大きな図書館で、ビデオ鑑賞ルームもあって、そっちは人が多かったりするが、普通の閲覧コーナーは、場所によっては人があまりいなかった。
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次