Fray
路地を抜けると、青色の街灯が終わって鮮やかな橙色に変わった。車の通りが多くて、こちらのほうがまだ安心できる。ただ、学校の制服を着たままだから、パトカーは見逃してくれないだろう。梨子の基準からすれば、警察の補導なんて完全にアウトだ。私だって、健やかに育ちたい。でも、まだ語れないぐらいに短いはずの十七年の人生に、後々気にかかって仕方がなくなるに違いないことをいっぱい、引っかけてきた。
横断歩道を渡って川に近づいたとき、真っ黒な海苔のように見える水面が結構な勢いで流れていることに気づいて、真里佳は首をすくめた。結構大きな川で、背の高い橋の入口から見下ろしていても迫力がある。これを渡ってしまえば、小学校の通学路から外れる。そう意識しながら足を踏み出すと、空気がふっと頼りなくなった。倉敷は弱々しい外見とは裏腹に、人と同じことでは動じない、どこか不思議なオーラを持っていた。運動神経が鈍くて鉄棒の前回りすら戸惑うぐらいだったが、彼女からすれば、鉄棒を支点にぐるりと回れる周りの生徒の方が異次元の存在で、不思議な人という扱い。弱い存在でいながら芯にはマイペースさがあって、そこが好きだった。歩きながら、ふと思った。これは、橋を渡り切れば終わるのだろうか。それとも、家に滑り込むように帰って、乃亜とご飯を食べてきた梨子に白々しい顔で『おかえり』と言うときも、ずっとそこにいるのだろうか。もしいてくれるなら、今度はその記憶と仲良くしたい。当時のことを思い出したくない梨子には悪いけど、もう隅には追いやったりしない。
真里佳は橋を渡り終えると、急な角度の交差点を左に曲がった。これが例の、川沿いの道。結構大きな川なのに、大きな堤防がなくて実質流しっぱなしというのは、子供の頃に聞いた。だから増水したときは荒れ狂っているし、晴れ続きの日は河川敷が顔を出すぐらいに干上がる。今はその中間ぐらいで、ふらりと地元に迷い込んだ私を充分に怖がらせている。水の流れる音は落ち着かない。牧田流花が殺されたとき、その悲鳴は対岸の住宅街からは全く聞こえなかったらしい。川を流れる水の轟音にかき消されたのだろうか。あの日、雨は降っていたっけ?
そこまで考えたとき、真里佳は複雑に折れ曲がった道の前で立ち止まった。郵便局員だった父は口癖のように『あのT字路は、事故で人が怪我するのを待ってる』と言っていた。こうやって前に立つと、その意味が分かる気がする。見通しが悪くて、カーブミラーはない。叱られた後のような遅さで歩くと、真里佳は交差点から先を覗いた。
赤い郵便ポストは、かつての記憶にあるような鮮やかさを保っておらず、街中に点在する他のポストと同じような色合いになっていた。すぐ後ろには車二台分ぐらいの雑草が生えた空き地があって、奥にはあの廃屋が建っている。屋根は瓦がパズルゲームのようにあちこち抜けていて、傾いているようにすら見える。そして、ドアが焼け焦げた白いトラック。真里佳は目を細めて、記憶を辿った。ずっと放置してあると思っていたけど、昔は前を向いて停まっていた気がする。今は、道路にお尻を向けている。
真里佳は横目で様子を窺いながら、早足でさっと前を通り過ぎた。ローファーの足音は、川の水音でそれほど響かなかった。足を止めて振り返る気には到底ならず、真里佳はそのまま川沿いの道を歩き続けると、次の橋が架かる交差点まで出て、コンビニに入った。昔は、車のお店だった気がする。店員さんの『いらっしゃいませー』という声に心拍数は落ち着き、真里佳は首をすくめながら店内に入り込んだ。
乃亜に合わせて十一時上がりにしようと思っていたら、乃亜が一時間早上がりすることになって、両方が十時に店から解放された。梨子は、私服でも派手な乃亜の隣を歩きながら、言った。
「早上がりにしてくれて、ありがと」
「惚れ直したっしょ」
乃亜はそう言うと、繁華街の端まで辿り着いたことに気づいて、足を止めた。ホストクラブが密集するエリアから可能な限り遠ざかったが、それでもどこからか黒服が湧いてくるときがある。梨子は小さく咳ばらいをして、言った。
「私は、何でも食べるよ。乃亜はリクエストある?」
「うーん、静かに話せるとこがいいな」
梨子は大通り沿いの和食居酒屋を選び、個室に腰を落ち着けるなり、向かい合わせに座った乃亜が言った。
「さあて、梨子ちゃんよ」
「何?」
梨子がおしぼりを受け取りながら言うと、乃亜が烏龍茶を二つ注文し、メニューを開きながら店員が立ち去るのを目で追って、小声で言った。
「どーしちゃったの? ヨシだっけ。すげー口説かれた?」
「いや、そんなことはないよ」
梨子はごまかすように笑顔を作ると、やってきた烏龍茶のグラスに視線を落とした。料理を注文し、店員が立ち去るのをじっと見ていた乃亜は、話に戻ろうと口を開いたが、梨子はその前に呟いた。
「なんだろうね。今のままじゃ目立たないし、よくないかなって」
「方向転換ってこと? いきなりは危ないよ。あの人、ノッてた割りに名刺もくれなかったしな」
乃亜は烏龍茶をひと口飲むと、ため息をついた。梨子は分類するなら、客とそれなりの距離を保つ友達『未満』営業。立ち話レベルと言ってもいい。店長は舞妓スタイルと言って茶化すけど、実際梨子の目には、相当強い目的意識が籠っている。話している内に、この人の邪魔をしてはいけないなと気づかされるのだ。何でも全力でとりかかる性格だからこそ、色恋に移るのはリスクが高い。変に気を持たせて、相手がストーカーになったら相当厄介なことになる。あしらう方法を先に勉強しておかないといけないし、どんな関係だって、いつかは少なからず、そうすることになるのだから。乃亜は言った。
「ヨシさん、左手に指輪はまってたけど、気づいてるよね?」
「分かってる」
梨子はそう言うと、目を伏せた。乃亜はしばらく烏龍茶のグラスに浮き始めた水滴を見つめていたが、自分を無理矢理納得させるように、首を横に振った。
「そうじゃないね。順番が逆だわ。その話はいつでもできるし。今日、どうして誘ってくれたの?」
梨子は気まずそうに首をすくめた。
「真里佳が、事件記者モードに入ってて。昨日も、全然寝てなかったんだ。で、いつも作ってくれるご飯を遠慮したってのが、今日お誘いした理由」
「私を選んでくれて、光栄だよ。てかさ、真里佳ちゃん偉いな。話合いそうなんだよなー。でもさ、前会ったとき、目とか全然合わせてくれなかったよね」
「番号は知ってんだから、電話したらいいじゃん」
梨子はそう言って、ちょうどやってきた料理が置かれるのを、体を引いて眺めた。食事が始まり、野菜を摘まみながら乃亜が言った。
「電話とか、ハードル高すぎ。真里佳ちゃん、スイッチ入ったら睡眠忘れそうな感じあるわ」
返事がなく、乃亜はブロッコリーのかけらを口に放り込みながら、視線を上げた。
「私は梨子が心配だよ。てんちょーに聞いたけど、ばなな庵の店長も行方不明らしいんだよ。最後に会っていたのが、ヨシだって。治安悪すぎない?」