Fray
「山田さんって、すごい落ち着いてますよね。お酒飲んでも、全然変わらないし」
「はい、頭の中で色々考えすぎて、口や手足を動かす暇がないって、ご本人はおっしゃいます。すごい賢いんだと思います」
乃亜は、高島の水割りを少し濃く作った。いくらでもアルコールを吸収できそうな体をしているし、この中で一番山田のことを知っているのは、間違いなくこの人なのだから、彼がどんな人間かは、後輩の口から語ってもらおう。梨子は基本的に、友達『未満』営業だ。相手に気を持たせるようなことは言わない。蟻地獄を見極める目はないし、準備もなしに、そんなものは持ってほしくない。
「そんな人に大事にされてるって、いいですね」
乃亜が言うと、高島はうなずいた。真意は『そっちの側に入れて助かった』かもしれない。グラスを差し出すと、乃亜は続けた。
「私、地元がすごい離れてて。最初にここに出てきたとき、誰も頼れなくて心細かった。高島さんは地元ですか?」
「はい。自分は、隣の区出身です。誰も知らないって、心細いですよね。山田主任は、結構北の方の出身で、地元は信号が縦向きなんだそうです」
高島は面接官の質問に答えるようにすらすらと言い、順番を終えたように唇を結んだ。乃亜は覗き込むように高島の目を見ながら、うなずいた。これはもう会話じゃなくて、ほとんど無線のやりとりだ。
「そーなんだ、雪が重いのかな?」
「あー。あー、そうですね。それで縦なのか」
高島が小膝を打ち、乃亜は思わず笑った。自分で言い出したのに、知らないなんて。素の笑顔が伝わったらしく、高島は少し頬を紅潮させて目を伏せた。乃亜は真顔に戻って、言った。
「私、会社員になっても、うまく立ち回る自信がないな」
高島はその厳しさを自分なりに理解しているように、唇を一度固く結んだ。
「うちには、とても厳しい課長がいまして。山田さんと一緒にいると、怒られずに済むんです」
「課長が厳しいんですか。山田さんがバリアーになってくれているってこと?」
乃亜は、梨子と山田の間に声を通すと、話題ごと自分の側に引きずり戻した。
「おれがバリアー? なんだよそれ」
山田が苦笑いを浮かべながら、言った。高島は否定するように手をばたばたと振った。
「いえ、椎名課長が厳しいという話をですね……」
「まー、あの人はパワハラ体質だからな。言っとくけど、おれもそんなに変わらないぞ」
乃亜は、山田の口調が随分くだけていることに気づいた。お酒を飲みだして、まだ数十分だ。酔ってガードが低くなるタイプにも見えない。原因は間違いなくリリカの『営業』だ。もちろん、それが私たちの仕事なのだけど。高島は会社で見せているに違いない硬い笑顔を見せると、うなずいた。
「少なくとも、山田さんは平等だと思います、はい」
「贔屓はイヤですよね。でも、どこにだってあるのかな」
乃亜は、自分が店長のお気に入りであることを自覚しながら言った。この店なら、高島は私ということになる。
「人間がやる以上、相性とか好き嫌いからは逃げられないよ」
山田が言い、乃亜は愛想笑いを返した。その『相性』を勘違いする前に、梨子を引き離したいんだけどね。しばらく人間の相性の話が続いてウィスキーが燃料のように足された後、最初に指定した時間が過ぎたところで山田が腕時計に視線を落とした。
「さー、戻るか」
「え? 仕事帰りじゃないんですか?」
乃亜が目を丸くすると、高島は首を横に振った。
「社内のインフラ更新作業がありまして、そろそろ処理が終わる頃なので。そのまま明け方まで続きます」
「ごめんなさい、すごい飲ませちゃった」
乃亜が顔の前で手を合わせて頭を下げると、山田が笑いながら首を横に振った。
「高島からしたら、ウィスキーも麦茶も同じだから」
梨子が立ち上がると、ボーイにチェックのサインを送りながら言った。
「名刺忘れちゃった、ちょっと取ってきていいですか」
乃亜が呼び止める間もなく、梨子は早足で控室へ消えていった。今まで名刺を忘れたことはないし、普通ならまず渡していいかということを相手に訊く。戻ってきた梨子は、会計を済ませた山田に一枚を手渡し、次に高島へ渡した。乃亜はポーチから二枚取り出すと、二人にそのままの流れで手渡した。
山田と高島が上機嫌で出て行った後は、いつも通りの夜に戻った。梨子は一瞬だけ、テンションに浮かされたのかもしれない。乃亜がそう思っていると、浜名が事務所から顔を出して、手招きした。入るなり、乃亜は言った。
「雑にてんちょー呼びして、すみませんでした」
「それはいいけど。お前、実録犯罪好きだろ? ばなな庵の店長、行方不明になってんだよ。リストに載ってる」
乃亜は、浜名が差し出したスマートフォンを覗き込んだ。ハンチング帽を被ってピースサインをする顔色の悪い男。
「二〇一三年、玉来信介、ライブイベントに参加した帰りに失踪。九年前ですか」
浜名はうなずいた。
「このとき、一緒に行ってて最後に姿を見たのが、ヨシなんだよ。店長と店員でプライベートの付き合いするってのも、ねえ」
浜名は、冗談めかして眉をひょいと上げた。乃亜が口角を上げて微笑むと、畳みかけるように姿勢を正した。
「怖くなってきたろ、今日、時間あるか? 続きは乞うご期待」
「今日は乞わないでください、先約があるんで」
「なんだよ、つれないな」
乃亜は肩をすくめた。梨子がご飯に誘ってくるのも珍しいが、こっちだって言いたいことがいっぱいある。
千草工業地帯は、持田歯科の近くから出ているバスに乗れば、工業団地前まで一直線に行ける。それが一番の近道で、電車を使うと遠回りになる。住んでいたのだから、どこをどうやって歩けばいいかは、体が覚えている。真里佳は工業団地前でバスから降りると、スマートフォンを取り出した。ここから三百メートル歩けば、中寺一家が住んでいたアパート。そこから小学校までの道をショートカットできるのが、例の川沿いの道。地図アプリで見下ろしている限りは、記憶と変わらない。でも目の前に広がる景色は、夜でまったく先が見えない。図書館の言い訳も、何もなし。ただ、ぽっかりと時間が空いただけだ。
罪悪感はある。それはどういうやり方をしてここに辿り着いたとしても、同じだったに違いない。もしかすると、梨子が乃亜とご飯を食べに行くという免罪符が効いている今の方が、楽かもしれない。真里佳は地図アプリを参考に歩きながら、アパートや小学校の方へは近寄らず、川へ続く路地を進んだ。ここだけ、青色の街灯がついている。
何してんの? と頭の中でしきりに梨子の声が聞こえるし、ちょっと見たいだけだよとすぐに言い返す自分の声の方が弱々しい。むしろ、何してんの? という声の中には、自分自身の声も混ざっている。本当に私は、何をしているんだろう。目の前に広がる景色は、真っ暗というのもあって、かつて子供の頃に歩いていた記憶と全く交差しない。今は午後九時半。子供の頃、こんな時間に外出したことはない。