Fray
タマちゃんは、ブロックで殴ったら本気モードに切り替わった。今、高島の後頭部に対して同じことをすれば、作業は進むだろうか。店にいたのは一時間だけなのに、高島は随分酔っている。ついさっきも更新モジュールの適用順を間違えて、三十分手戻りになったばかりだ。山田はメーカーのオンラインマニュアルをスマートフォンで調べながら、言った。
「ステータス、なんて書いてある」
「ソケットオープンって、なってます」
猫背でディスプレイを見つめる高島の傍へ移動すると、山田は自分の目でもステータスを確認して、背中をぽんと叩いた。
「じゃあ、そのまま進めていい」
「すみません、帰るのが遅くなってしまいました」
「いいよ、気にするな」
短いやり取りを終えて、山田は『では、寝まーす』と送ってきた夏美に、『おやすみなさい。激務でごめん』と返信を打った。返信は昭人の写真で、怒ったような眉毛が寝顔に描き足されている。昭人と話したい。疲れ切っている夏美にココアを作って、まだ生活感の足りない家の中で、色んな話をしたい。家の中にあるのは、未来のことばかりだ。なのに、想像する部屋の片隅に、あの『うさぎ』がいる。思わず追いかけるが、間に合わない。息を切らせていると、違うところから耳がひょっこりと出てくる。すぐには殺さずに足の柔らかい部分と首を掴んで、真っ二つに引きちぎってやりたくなる。
「いい加減にしろよ……」
山田が呟くと、高島が首をすくめた。
「すみません」
「いや、お前じゃないんだ。別の話だよ」
言いながら、山田は高島の背中を見つめた。そう、お前じゃないんだよ。例の『うさぎ』が新しい餌を欲しがっていて、なんならお前でも構わないって、さっきからずっと言ってるんだ。高島は、背後から突き刺さる視線で焦げ目ができたように、背中を捩った。
「夜のお店、あまり経験がなくて、楽しかったです。ありがとうございました」
「二人とも愛想よかったし、あれは大当たりの回だな。いつもあんな上手くはいかないよ」
山田はそう言うと、二枚の名刺を眺めた。リリカとアリサ。いいコンビだ。高島とアリサが話すのをもっと見てみたかったが、不慣れならあれぐらいが限界だろう。クラッシーのことが聞き出せればそれで満足だったから、目的を果たした以上、高島を何度も連れていくつもりはない。そもそも目的が違う。こちらの知らないところで、勝手に濡れ衣が足されそうになっているのだ。インターネット上なら好き勝手に嘘だってつけるし、それを問い正す方法はない。
浜名も、クラッシーは知らないと言った。それで終わったはずだった。店から出て、会社まで戻っているときは、更新作業の段取りを頭に呼び起こして、不安は消えかけていた。これ以上の邪魔が入るのはごめんだ。夏美と昭人が待っているのだから。それなのに。
リリカの名刺の裏には、メッセージアプリのアカウント名が書かれている。目に焼き付いたのは、名刺を取りに行く後ろ姿。ちょっと急いでいて、華やかな青のドレスがさらさらと揺れていた。それが前菜のように、『うさぎ』は牙を剥いてあっさりと平らげた。
今は、メインはいつ来ますか? と言いながら、頭の中を跳ねまわっている。もう餌はやらないと決めたが、このままだと、高島をどうにかしてしまいそうだ。山田はスマートフォンを手に取ると、リリカのアカウントを検索した。
午後十時、少し余裕を見て帰るなら、そろそろ動き始めた方がいい。真里佳はコンビニで小さな袋菓子を買うと、外に出た。一度通り過ぎてから見る川沿いの道は、目が慣れているからか、怖さは感じない。でも小学校からの帰りにここを通って、倉敷は行方不明になったのだ。昔は気にしなかったが、歩道の白線も途切れたり掠れたりしているし、高校生の目から見ると、道路の状態は相当危なっかしい。真里佳は橋を渡って大きな道からバス停まで行くかしばらく迷っていたが、もう一度、郵便ポストの前を通ることに決めた。川の音が弱まっていて、来たときよりも足音がよく響く。郵便ポストの前まで来たとき、その距離の近さに真里佳は思わず足を止めた。無意識に道路の左側を歩いていたから、目の前にある。
真里佳は郵便ポストの陰から、トラックの後部を覗き込んだ。近くで見ると、荷台は錆びているし、ナンバープレートも何かにぶつけたみたいに端が曲がっていて、酷い有様だ。でも、壊れているようには見えない。真里佳は目を凝らせたとき、ナンバープレートの隣に何かが吊られていることに気づいた。リスの形をした小さなぬいぐるみ。みんながあまり選ばない色をしている。先生も、生徒も、数少ない友達だった自分も、口を揃えて言っていた。
『倉敷さん、その色が本当に好きなんだね』
パステルブルーの生地。反射的に逃げようとする力が足に中途半端に伝わり、真里佳は尻餅をついた。もう六年も前のことだ。リスのぬいぐるみは下半分が汚れているが、括りつけられている頭の部分は綺麗だった。
足が力を取り戻して地面を探り、体を起こした真里佳はスマートフォンを取り出した。手が上下左右に震える中ロックを解除し、カメラを起動した。手が言うことを聞かない。真里佳は画面に食らいつき、まだめちゃくちゃに動く指を抑え込んでシャッターボタンを押した。何枚か撮って顔を上げたとき、目を見開いた。廃屋の窓が、薄暗く光っているように見える。
誰か、中にいる。
心拍数が跳ね上がり、今までぼうっとしていたのを取り戻すように、全身に鼓動の衝撃が伝わった。真里佳は郵便ポストにしがみつきながら体を起こすと、ローファーが甲高い音を鳴らすのも構わず走り出した。全身が上下に揺れる中振り返っても、何も追いかけてこない。急に前に向き直ったことでバランスを崩して転びかけた真里佳は、早歩き程度までペースを落とすと、再度振り返った。自分の息が上がっただけだ。例のトラックは死角になってもう見えないし、点在する街灯の少し緑がかった光が一時停止の白線をどぎつく照らしているだけ。
真里佳は頭の中で自分に呟いた。じゃあ、戻れよ。怖くなんかないでしょ? ただの道で、こっちは無力な小学生じゃない。ある程度知恵も揃った高校生だ。当時と違ってスマートフォンだって持っているし、問い質す力だって。上がった息が少しずつ落ち着いてくるのに合わせて、真里佳は呟いた。
「何を怖がってるのよ……」
息を整え終えたとき、真横からヘッドライトの光に照らされて、真里佳は肩をすくめた。黄色の軽自動車が曲がっていくところで、下げられた窓から女の人が顔を出した。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません」
真里佳が頭を下げると、女の人はしばらく迷うように目線を泳がせていたが、夜に高校生がダッシュして息を切らせていることも、あり得ないことはないという結論に達したように、窓を上げながら走り去った。それに合わせて真里佳はバス停の方へ歩き出した。倉敷の顔が浮かんだが、もう遅いよと言っているように、その表情は穏やかだった。意気地なしでごめん。でも、安心してほしい。写真もなんとか撮れたし、これで諦めたりはしないから。
絶対に逃がさない。