Fray
二〇〇三年、若菜が死んで九年が経ったとき。両親が建てた新しい家は、二人と飼われていた犬を中に閉じ込めたまま火事で全焼した。現場検証の結果、寝タバコという結論が出たが、そのタバコはこちらで一階の居間に置かせてもらったものだ。遺品は、火のあおりを受けて半分焼け焦げたデリカトラック。足がなくて自転車移動だったから、それ以来ずっと、ありがたく使わせてもらっている。
潰し損ねた生家には、もう住んでいない。今の自宅は楠木電機の二階で、一人で住むには十分な広さだ。両親が家ごと焼失して以来、廃屋は朽ちるままになっていたし、楠木電機自体の経営もとくに上向きではなかった。もちろん、悲劇が相次ぐ中家業を継いだ、楠木家最後の生き残りという目で見られていたから、仕事の引き合いはあった。ただ、張り切るほどの仕事量もなく、両親は子供を早朝から放ってこんなことに汗を流していたのかという、醒めた気分しか味わえなかった。
もちろん、両親の世界から頑なに出て行かなかったのは、こっちの方だ。その引け目があったから、やる気を出して臨んだ二〇一二年の生家解体計画が頓挫したとき、これはもしかして、ここから出るなと暗に言われているのではないかと、真剣に考えた。この頃には楠木電機の二階を自分仕様に改装して、ほぼそちらで過ごしていたが、試しに生家の方で生活をしてみることにした。
それは、二年ほど続いた。雨が漏ったり、虫が入り込んだり環境は散々だったが、家が少しずつ湿っぽく朽ちていくのを見ながら、壊れたテレビだけが残る居間でスマートフォンをチェックしていた。二〇一三年、SNSで不意に始まった交流。ルカという本名のようなアカウント名で、その書き込みのほとんどは『この世から立ち去りたい』という趣旨。ただ彼女は、自分で何かをする自信はなかった。それは何度もメッセージをやり取りして、確認した。付録のようについてきた家庭の愚痴も散々聞いたし、途中からはそちらが主題に変わっていった。実家住まいで、高圧的な両親とはうまくいっていなかったらしい。電気を少し齧っただけで後のお膳立ては全て済んでいた自分を基準にすると、会社員をしているのだから立派だと思ったが、ルカは両親と同じ研究者の道を志すことを期待されていたらしく、その『約束』を破った以上は半分用済みだし、今後は不良品として、両親が不便な思いをしないように支えなければならないと書いていた。本人がこのどうしようもない世の中から出て行きたいなら、それは叶えてやりたいが。その前に、このルカの両親を消し去ってやりたい。その計画が頭に中に生まれたときは、もうやるべきことははっきり決まっていた。
ルカと会わないことには、何も始まらない。途中から通話アプリのチャットに切り替えて、具体的な話はそこで進めた。顔を合わせたら、少し怖い思いをさせるかもしれないが、先に実家の場所を聞き出す。やり取りは順調に進み、包丁を買って、全てが終わったら自分の家に撒く灯油も買った。あの世では、面倒な解体手続きも必要ない。計画が狂ったのは、ここからだ。ルカは当日ではなく、一日前に現れた。別の男が現れて短く言葉を交わした後、その手に刃物があることに気づいて、牧田流花は逃げ出した。殺され方にもこだわりがあったようだが、ナイフを手にした男は足が異様に速かった。街灯に一瞬だけ照らされた顏は、今でも記憶に刻まれている。早い話が、牧田は自分を殺してくれる人間を求めるあまり、二股をかけていたのだ。こちらは振られたということになる。あんな雑な滅多刺しではなく、もう少し丁寧に殺す自信はあったが、後の祭り。しばらくはインターネットの履歴からこちらも辿られるのではないかと緊張していたが、生家はあまりにもボロボロで報道では『空き家』とされ、当初は誰も聞き込みにすら来なかった。その安心感と引き換えに、頭の同じ場所に腰を下ろしたのは、牧田だけでなく、一家を殺し損ねたという記憶。それは少しだけ熱を帯びていて、今でも家電の取り付けをするときに子供が勢ぞろいしていたりすると、突然腫れあがって自己主張を始めるときがある。
今日は、十時から立石家のエアコン点検と清掃がある。休日は、夫婦と中学生の娘が総出で出迎えてくれる礼儀正しい一家で、今日は平日だから妻だけが家にいる。実際その方が、こちらにとっては都合がいい。家族全員が揃っている姿は、簡単に触れられない場所に居座る例の腫れ物に、手出しをするだけのきっかけを与えてしまいかねない。
インターネット上には、探偵顔負けの素人がいる。一瞬だけ陽炎のように現れた記事。『被害者は竹下早紀と牧田流花の二人とされているが、牧田が殺害された二年後に、下校途中の小学生が同地区で行方不明になっており、それも未解決である』
牧田が殺害された二年後ということは、二〇一六年。廃屋住まいにも飽きが来ていた頃だった。下校途中の小学生と聞いて、浮かぶ名前。
倉敷友香で、間違いないだろう。
この記事を編集したユーザーは袋叩きにされ、あっさりと記事は元に戻った。リアルタイムで編集された瞬間を見ていたから、思わずスクリーンショットを保存したが、これは何か根拠があって編集したのだろうか。このユーザーは恨み節のように『三人目、なかったことにされてて草』と書いているが、一体、何を知っているのだろう。捕まったところで言い訳や説明を尽くす必要性も感じないし、捕まえたければそうすればいい。いつ死んでも悔いはないが、問題が一つある。今は、特に死にたくはない気分だ。だから十時から立石家を訪問しなければならない上にもう八時を回っているが、一向に体が動かない。
コメント欄はまだ少し勢いが残っている。天井を見上げながら、とりあえずユーザー登録は済ませた。
『ようこそ! 当サイトはみんなで充実させていく、誰でも編集可能なコミュニティです。必ずガイドラインをお読みください』
トップページにそう書いてあるが、健康的に利用するつもりはさらさらない。楠木はようやく体を起こすと、四十二番のコメントを眺めた。
『出遅れた。なんて書いてあったの? ガチ地元民だから怖いんだけど』
地元民なら、これは知っているだろうか。楠木は四十二番に対する返事を書き込もうとしたが、途中でやめて、ユーザーにメッセージを送った。
『クラッシーだろ? 同じ奴に殺されたんじゃないの?』
倉敷友香は、あだ名を教えてくれた。
それが、最後になったが。
集中できない。山田は、セキュリティ連絡会と称される役員の暇つぶしにメンバーとして組み込まれていて、主任という立場上ほとんど発言は求められていなかったが、次期役員が確実な椎名課長の『顔を売っとけ』という一言で、半年前から強制参加が始まった。