Fray
あの河川敷界隈は、あまりに離れすぎている。梨子の全てを置き去りにする作戦は成功したしそれは喜ばしいが、もしあの辺りにふらりと顔を出すとして、どんな言い訳を用意すればいいだろう。主語が『友達』は、その時点でダメだ。学校外で話す友達はいないし、梨子は薄暗いコピー品である妹の性格を本人よりも把握している。他に考え付くとしたら、『図書館へ行ってきます』。殺人百科事典をインターネットで調べるのと、実際に本を読むのとはまあ、似ている。しかし図書館は、例の河川敷と完全な逆側にあって、往復すれば一日仕事になってしまう。何も借りることなく、ただ図書館をうろついていたというのも、梨子なら怪しむかもしれない。もちろん、言う前からバレている嘘をついたって、怒ったりはしないだろう。結局、肝になるのはこちらの罪悪感だ。あの場所から逃げようと決めたのが梨子だとしても、その恩恵をどっぷり受けているのだから、裏切りたくはない。例えば、昔住んでいた町にまだ愛着があるとか、実家に何かを取りに帰りたいとか。倉敷のことを『クラッシー』って呼んでいたとか、私は『テラマリ』だったとか。用事が一切ないかというとそうでもない。例えば、手芸部の活動で作った無数のアクセサリーの中でも、トートバッグは倉敷との最後の思い出だ。倉敷は、何にでもパステルブルーの生地を使いたがった。魚だけじゃなく、クマのぬいぐるみですら、パステルブルー。そのトートバッグを作るときも当然生地の色で揉めて、パステルブルーとピンクの合わせ技になった。
でも、今思えば、倉敷から最初に訊かれたのは、『好きな色』だった。白と答えて、確かそれがイメージ通りだったように、倉敷は笑っていた。次の日、シロツメクサを綺麗にアレンジした編み物を、プレゼントしてくれた。それはすぐに枯れてしまったけど、記憶の中では何よりも真っ白で、生命力の塊。
そういった記憶は、全てが宝物だ。でも、自分の頭から外には出せない。
梨子は頼もしい。でも、高速回転していると分かっているときはあまり近づかない方がいい。何故なら、妹が触れたときだけふわりと止まる保証はないから。振り返れば、その行動力の源が底知れず、怖いと思うときもあった。あれだけどうしようもない両親が、無力でかわいそうとすら思えるぐらいに。ちなみに今の梨子は、まだ高速回転の途中。
もちろん、その回転数に関わらず、近くにいたい。
目の前の信号が数回、青と赤を繰り返していたことに気づいて、真里佳は再びペダルをこぎ出した。主に否定的な論調だったコメントの中で、唯一トーンが違っていた四十二番目。
『出遅れた。なんて書いてあったの? ガチ地元民だから怖いんだけど』
コメント欄で返事をすればまた叩かれるだろう。でも、個別にユーザーへメッセージを送ることはできる。もちろん梨子は『ネットの相手とは話すな』と事あるごとに言ってくる。でも、それを簡単に言えるのは、梨子が人との接点を無限に持っているタイプの人間だから。学生仲間にしろ、大人のお客さんにしろ、バイトの同僚だって、ネットの相手に頼らずに言葉を交わす機会なんて死ぬほどある。
真里佳は、停止と再発進を繰り返しながらぎりぎりの時間に学校へ辿り着いた。
白いトラックと赤い郵便ポストのある廃民家。今はそもそも、そのアイデンティティを保っているのだろうか。
二〇一二年は、最悪に近い年だった。危険性がないというふざけた理由で解体補助金の申請が降りず、川沿いの廃屋を潰し損ねた。どの道、二束三文の土地だし、綺麗さっぱり手放したかったのだが。
『ほら、ちょっと奥にあるでしょう。台風で飛ばされそうなところとか、補助にはそういう理由が要るんですよ』
当時は三十歳だったが、あと五歳若かったら、にやけ顏の担当者に頭突きを入れていたかもしれない。楠木尚人は、当時のことを思い出しながら部屋の真ん中で仰向けに転がり、天井を眺めた。天井にかすかに走ったひび割れが、地形図の川に見える。今の暮らしに不満はない。電気工事の仕事は、日が暮れたら眠るという太古の暮らしに戻りでもしない限り必要不可欠だ。四十歳になって平衡感覚は少し怪しくなっているが、基本的に一人親方で、今でも施工は自分でやっている。商店街の片隅に店を構える楠木電機の二代目として、それなりの地域貢献はしているつもりだ。最近は、わざわざ店舗を開けて中に人を呼び込むことはない。商品を見て買う昔ながらの人間は、公園ぐらいの敷地面積を持つ電気屋に行く。ただ、施工も込みでのサービスなら、電話一本で済むこちらの方が早い自信がある。手先の器用さに驚かれることが多いが、特に練習を重ねてこうなったわけではない。親から、何でもいいから手に職をつけろと言われ、嫌々手をつけたのが電気だった。
楠木一家は、父、母、自分、妹の四人家族。両親は人の家に家電を据え付けるのに必死で、家族には愛着を持たなかった。その淡々とした生活の影響を受けて、特に兄である自分は、人生に対して愛着を持たない人間に育った。いや、育たないまま年齢だけが大人になった。仕事に対する具体的なイメージは特になく、両親が朝早くから商店街の方へ出て行く姿だけ。学校からの帰り道は、本当なら妹の若菜と合流して帰ることになっていたが、図書室で待ってろといちいち聞かせるのも面倒で、若菜が三年生に上がる頃にはその習慣もなくなっていた。お互い、一緒に登下校する仲の良い友人はいたし、両親が帰ってくるのは二十時を回っていて、その時間になれば楠木兄妹は必ず揃っていたから何の問題もなかった。その裏マニュアルの運用は、一九九四年の七月、夏休みまで一週間を切ったときに、四年生だった若菜が下校中に行方不明になったことで終わった。遺体は下流で偶然木に引っかかった状態で見つかり、事故死とされた。正真正銘の、最悪な年。その日を境に、楠木一家は大人二人と、妹を見殺しにした兄に分かれた。特に言い訳をするつもりはないし、若菜は綺麗なものが好きだったから、花で白く彩られた河川敷を見て足を踏み入れたいと思ったとしても、不思議じゃない。高い草でどこまでが地面か分からず、足を取られたのだろう。両親はしきりに『何故』と繰り返していて、その背中は、分断されたような部屋の中で眺めていると、次第に滑稽になっていった。
自分には、何かが欠けている。そう思っていたが、若菜が死んだ翌年に家の車が新しくなったときは、この両親もどこかおかしいのではないかと思うようになった。最新型のデリカトラックで、ハイゼットから買い替えたのだが、後ろ姿から聞こえてくる二人の声をまとめると、ずっとその計画はあったらしい。
それから高校を出るまでの間、基本的に両親の後ろ姿を見て過ごした。手に職をつけろというアドバイスを生かして、父親と全く同じ仕事を始めたことに、特に意味はなかった。成人し、両親は商店街に少し近い場所へ家を建てて移り住み、それまで四人家族が向き合ってテーブルを囲んでいた家は、自分だけのものになった。新しい家の鍵は一応もらっていたが、使ったのは一度だけ。
家族という存在が敵になったのは、その時だ。自分で若菜を殺していた方が、まだ気は楽だった。