Fray
「いやー、ちょっと書いたらボコボコにやられるんでゲス……」
「掲示板? あんたマジでさ、ネットでコミュニケーション取るのやめなって」
梨子は避けられない水たまりを見つけたように顔をしかめた。真里佳は眉をひょいと上げると、言った。
「掲示板じゃないよ。コメント欄にちょっと書いてみただけなんだけどね」
「なんて書いたの?」
梨子が言うと、真里佳は口をつぐんだ。梨子がわざとらしく瞬きを繰り返しながら覗き込むと、目を逸らせながら顔を引いた。
「近い近い。まー、色々と」
出典を明記できない編集は控えてくださいという、管理人からのお怒りメール。参考程度に、備考の欄に少し情報を足しただけだけど、やはり百科事典を名乗るページなだけあって、厳しい。加筆するときは、周りの文章のトーンから浮かないように注意したつもりだったが、無意味だった。
『被害者は竹下早紀と牧田流花の二人とされているが、牧田が殺害された二年後に、下校途中の小学生が同地区で行方不明になっており、それも未解決である』
十五分で『出典?』というコメントがつき、管理人が動き出した。根暗女子高生の手によって加筆された記事が生きていた時間は、一時間もない。中には『関連?』という踏み込んだ内容の指摘もあった。それなら、得意の早口でまくし立てることができるが、確かに他の二人が二十代の会社員だったことを考えると、関連は薄い気もしてくる。
下校途中にふと姿を消したのは、当時五年生の倉敷友香。倉敷さんと呼んでも嫌がるし、下の名前はもっと恥ずかしがるから、二人の間では『クラッシー』という呼び名に落ち着いた。存在感が薄くて、背後の景色が透けて見えるのではないかと思えるぐらいに、弱々しい外見。崩壊家庭の最悪な部分をランドセルと一緒にずっしりと背負っていた。最後に目撃された場所は、通学路に指定されていない川沿いの道路。ガードレールはないし、川の流れが早くて危ない道。そして、そのまままっすぐ歩けば、あの白いトラックと赤い郵便ポストの家の前を通る。牧田流花が殺された場所だ。ほとんどの小学生はそこを通らないよう親から教わるが、倉敷にそんなことを伝える大人はいなかった。何故そんなに詳しいかというと、クラスこそ違えど、手芸部で一緒だったから。倉敷は、クラスのメンバーが一人も被っていない部の方が落ち着くのか、よく話をした。そんな彼女が私につけたあだ名は『テラマリ』。
今でも残る後悔。十一歳だった中寺真里佳には、倉敷に『あの道は通ったらだめだよ』と言うだけの知力がなかった。視線に気づいた真里佳が顔を上げると、シリアルを食べ終えた梨子が言った。
「今、ドッペル真里佳としゃべってたでしょ? 微妙に、口動いてたよ」
梨子は、真里佳の頭の中にもう一人真里佳がいると、事あるごとに言う。ドッペルゲンガーを略してドッペルとあっさり言い切れるのは、梨子だからとしか言えない。真里佳が小さくうなずくと、梨子はハンドバッグの中身を福引きのガラガラのようにかき回しながら、言った。
「ネットだとさ、そういう真里佳のドッペルな部分とか、相手からは見えないわけじゃん」
「見えたら、まず会話が成立しないでしょ。相手がビビって逃げちゃうよ」
真里佳はそう言ってスマートフォンを裏返すと、シリアルを吸い込むように食べ終えた。中寺梨子にとっての黒歴史は、このマンションの四〇五号室を借りるまでの全て。だからそれ以前の話はあまりしないし、それはこの連続殺人も同じだ。牧田流花が殺されたときは新聞にも大きく載り、見慣れない機材を満載したバンが生活道路をすり抜けていくのを、窓から見ていた。ニュース番組の映像は動画サイトにあって、当時テレビで見ていたままのものすらあった。今も気になっているのは、『近辺には空き家しかなく』というアナウンサーの言葉。白いトラックが停まっている後ろには、ぼろぼろの民家が建っていた。他に家はないから、アナウンサーの言う空き家とは、やはりあの家のことなのだろう。
梨子が身の回りの用意を始め、居間に移動すると化粧を始めた。大学の仲間とよく集まっていて、写真を見せてもらうこともあるが、みんなが軽い雰囲気を醸し出しているのを追い越そうとするように、梨子の化粧気やオーラには容赦がない。真里佳はスマートフォンのインカメラで顔の様子を観察して、目の下にクマが残っていることに気づいた。一度強く目を閉じて再び開くと、もちろんクマはそのままな上、無理やり起きた感じは増した。隠す気力もない。このまま前を向いて目を閉じていれば、梨子が余った時間でこちらの顏までちゃっちゃと仕上げてくれないだろうか。真里佳は都合のいいことを頭に浮かべながら目を閉じたが、頭に浮かぶのはスマートフォンの中の世界で、今は当然、千草工業地帯連続殺人だった。あのルールが徹底された、殺風景な記事。そこへ倉敷友香を入れようとするに当たって、何が必要だろう。出典は、実際に行方不明になっているという事実がある。しかし、関連は? 椅子から落ちそうになって思わず目を開けた真里佳は、呆れた様子で笑う梨子と入れ違いで居間に入った。梨子は、自分の顔の用意を終えた後に、真里佳が使うべきものを全て出した状態で次の用意に取り掛かる。それは化粧セットではなく、肌の敵から身を守る最低限のセット。いつか化粧の方法を聞いてみたいが、同じ顔になりそうだ。
慌ただしい朝の準備が終わり、二人は家を出た。真里佳の通う高校は自転車圏内だが、梨子は電車で四駅ある。エントランスを出て逆方向に進み、梨子は駅までの道を早足で歩き始めた。真里佳は自転車に乗ると、学校までの道を辿りながらそれでも事件のことを考えていた。信号にひっかかったことで、頭は完全に切り替わった。