Fray
しかし、たまには死んだ餌であっても、与えておいたほうがいい。
国内のありとあらゆる殺人事件を集めたオンライン百科事典のサイトに『千草工業地帯連続殺人(仮称、未解決)』というページができたのは、三年前のこと。山田芳人と『うさぎ』が共同で作り上げた大学時代の思い出が、第三者の目線で丁寧に書かれている。当時住んでいたところは、大まかに『千草』という地域で、工業地帯と住宅地帯の両方が同じ名前で呼ばれていた。離れた港で死んだタマちゃんは別件だと思われているらしく、被害者リストに入っていない。
竹下早紀と牧田流花の共通点は、会社員で二十代半ば、自殺志願者だったという点だ。二年空いているが、そこを結び付けた人間がこの記事を作った。つまり、竹下は動物ではない誰かから逃げていたのではないかと当時から思っていて、背中にしか傷跡がない牧田の遺体が報道されたときに、似ていると思いついたのだろう。
最初にこの記事を書いた人間は、頭の中にいい『火花』を飼っている。
犯人として疼くのは、この記事に対して誰でも編集が可能という点だ。もちろん、編集するにはメンバーである必要があるし、突拍子もないことを出典なしに書けば、物言いが入る。張本人としては、ここにタマちゃんを足したいのだが、出典を明らかにすればこちらが逮捕されてしまう。
それでなくても、最近は賑やかだ。変な編集が入って管理人が消したらしく、コメント欄が延々と掲示板のように続いている。今のところ、四十一番の『ガチの地元民しか知らないような証拠があれば、まだしも』というのが最後。流れ星のように現れたその記事を読んでみたいが、もう消されていてどうしようもない。騒ぎに気づいたのは久々に開いた昨日だが、今日見ても、恨み節のような二番目のコメントはまだ残っている。
『三人目、なかったことにされてて草』
三人目というのは、妙な言葉だ。時系列に並べれば、タマちゃんは確実に二人目になるからだ。ずっと引っ掛かっているのは、牧田を殺すときに、どこかで誰かが見ていたということ。大学時代の、懐かしい場所。あの展望台や、タマちゃんと訪れた色んな店。片方のドアが焼け焦げたトラックと、赤い郵便ポスト。
そう簡単に、餌を与えてたまるか。山田はそう思いながらノートパソコンを閉じ、寝室へ入った。夏美が薄目を開けて小さく『お疲れさま』と言い、山田が空いたスペースに体を押し込むとパズルのピースがはまったように息を深く吸ってから、目を閉じた。夏美は、仕事の続きを寝る直前までやっていたと思っている。山田は、二人と同じように目を閉じようとしたが、中々眠気はやってこなかった。当然だ。例の『うさぎ』と合意に至っていないのだから。
お疲れさまなのか。それとも、ご無沙汰していますなのか。
朝日が差すキッチンでシリアルをがらがらとボウルに投入し、中寺梨子はクジャクのようにはっきりとした目をぱちぱちと瞬きさせると、居間で死体のように横たわっている妹の真里佳を呼んだ。
「おーい、エサだよ」
「あーい」
死体でも、もう少し覇気のある返事をする。梨子が首を傾けながら待っていると、真里佳はスマートフォンを中心に体をゆっくりと起こし、下敷きになってしびれた左脚を引きずりながら台所に現れた。梨子は大学の三年生で、真里佳は高校二年生。四歳離れた姉妹だが、その雰囲気は他人どころか、別の人種に見えるぐらいに異なる。梨子がコーヒー牛乳をパックから直に飲んでいるのを見て、真里佳は苦笑いを浮かべた。
「うわー、リリカってば。それはお客さんが引く」
梨子は、ガールズバーでアルバイトをしている。真里佳は源氏名を聞いたとき、『リカって言おうとして、噛んだみたい』と率直に感想を述べた。梨子は空になったコーヒー牛乳のパックをゴミ箱に捨てると、肩をすくめた。
「いちいちグラスとか、優雅すぎて百年早いからね。あんただって、死体みたいに転がってるのを見たら、患者さんびっくりするんじゃない?」
真里佳は、地元密着型の持田歯科でバイトをしている。受付や予約の登録が主な仕事だが、これから歯を容赦なく削られる患者が少しでも安心できるよう、明るく包容力のある笑顔を絶やさない。梨子はシリアルをひとつ指で摘まむと口に放り込み、ぼりぼりと噛みながら言った。
「ほら、私にもバイト中の笑顔を見せてよ」
真里佳は仕事中の笑顔に切り替えると、白い歯を半分だけ見せるように笑った。
「うーん、全部入れ歯にしましょうか」
「は? そんな権限ないでしょ」
梨子が笑い、真里佳が俯いてシリアルをスプーンで掬ったとき、遠くで電車が通り過ぎる風切り音が鳴った。朝七時半。ここから夕方までは、学校の時間。真里佳のバイトは、会社員をターゲットにした最後の診察時間まで。梨子は夜の十一時まで、会社員の話し相手をする。お酒はあまり強くないふりをしている。帰ってくれば、真里佳作のご飯がラップにくるまれて待っているから。お酒で痺れた舌では、味が分からなくなってしまう。
テーブルの隅に置いたスマートフォンに視線を落とした真里佳の顔を覗き込んで、梨子は言った。
「あんた、その目は寝てないよね。また、変なの見てんの?」
真里佳は画面を隠すこともなく、スマートフォンから顔を引いた。好きなものは仕方がない、という悟りの境地。梨子は自分の側からは上下逆を向いている画面をちらりと見て、顔をしかめた。
「近所の事件とかさー、怖くないわけ?」
千草工業地帯連続殺人は、川沿いの家の前で殺された牧田流花が、最後の被害者とされている。元々、近寄りたくもない場所。焼け焦げた事故車の白いトラックと、塗り直されて生き生きしている郵便ポストのどぎつい赤色が危険信号を発している。郵便局員だった父親はしきりに『あの家の前は避けろ』と言っていた。今思えば、すぐ近くの安アパートを借りておきながら、随分勝手なコメントだった。母親は『二人とも、自分の身を守れるようになって』と、近所の子供に言うように呟いただけ。両親というより、生活で一番身近だった大人との接点を失ったのは、二年前のこと。大学に入るのと同時に、真里佳に『いいよね?』とだけ確認して、一緒に家を出た。梨子がシリアルを食べながら思い出していると、真里佳が言った。
「姉ちゃん、顏。顏ヤバい」
「え、すごかった?」
梨子が完全に表情を取り戻せないまま無理に微笑むと、真里佳はシリアルを齧りながらうなずいた。
「バッド……、入ってた? って言う?」
「無理して陽キャにならなくてもよろしい。真里佳もスマホ見てるとき、顔ヤバかったけどね」
梨子は今度こそ普通の笑顔を見せたが、真里佳はそっくり真似るように笑顔で応じると、姉の頭の中を無理に透視するのは諦めて、スマートフォンの画面と現実の間に滑り込んだ。
千草工業地帯も、梨子が再出発の拠点に決めたここも、田舎でも都心でもない点は共通していて、妙な距離感の土地だ。住宅街も繁華街もあるが、その間を繋ぐ道がどれも妙に長くて、夜になれば真っ暗になる。町全体が暗黙の門限を定めているように、容赦がない。真里佳は化粧気がないだけで姉とよく似た形の大きな目を、ぱちりと瞬きさせた。