Fray
乃亜は横目でちらりとその様子を見ると、さらにアクセルを踏んで後部が接触するすれすれでデリカトラックの前に割り込み、アクセルを緩めた。車間が見る見る内に詰まり、真四角のヘッドライトが警告を示すように、パッシングをした。
「あー、うぜー」
乃亜はからかうように言うと、スピードを上げて遠ざかる振りをして、またアクセルを緩めた。デリカトラックは苛つきを増したように右へ指示器を出すと、エンジンの回転数を一気に上げた。乃亜は同じペースでアクセルを踏むと、時速八十キロを超えたデリカトラックと並走して追い越しを許さず、相手が諦めて走行車線に戻ったタイミングで再びスピードを落とした。バックミラーの中でヘッドライトがハイビームに切り替わり、抗議するようなクラクションが響いた。
「ははは、煽れ煽れ。真里佳ちゃん、ぼちぼち撮影よろしく。梨子、通報して」
「なんて言えばいいの?」
「いや、私たち今、煽り運転されてるから」
乃亜が言い、真里佳がカメラを向けて、梨子が通報した。『どこか、安全な場所に停車できますか?』と聞かれ、梨子は運転席に向かって言った。
「乃亜、安全な場所に停まれますかって、聞かれてる」
「無理! 殺される!」
乃亜はオペレーターに聞こえるように叫び、アクセルを踏み込んだ。デリカトラックは同じように加速すると、バックミラー一面にライトが大写しになるぐらいに、車間距離を詰めた。梨子は通話を繋いだまま、乃亜に言った。
「近くのパトカーを探すから、この電話を切らないでって」
「分かった」
乃亜はバックミラーを見ながら、ハンドルを握りしめた。今は上り坂だから、本当に危ないことになったら、加速すれば逃げ切れる。下り坂に入ったら、話は別だ。本当に人を殺せるような人間なら、常識はそもそも通用しない。物理的に追突されたら、こっちが事故を起こす可能性が高い。蛇行するデリカトラックに張り付かれたまま上り坂が終わったとき、乃亜は、次の交差点の奥でUターンするパトカーに気づいた。デリカトラックが急ブレーキを踏んで離れたとき、赤色灯が光ってサイレンが同時に鳴り響いた。
大騒ぎが嘘だったように、クラウンマジェスタとデリカトラックの両方がしおらしくなって停車し、その後ろにパトカーが停まった。乃亜はシートベルトを外すと、言った。
「乗っててね」
運転席から降りた乃亜は、デリカトラックの運転席から降りてきた楠木に言った。
「なんなんですか、あなた」
「こっちのセリフだよ!」
楠木が叫んだとき、慌てて降りてきた警察官二人が前に回り込んで制止し、言った。
「ちょっと、ちょっと。落ち着いてください」
乃亜は憮然とした表情で腕組みをすると、デリカトラックを眺めた。
「こんなポンコツに、おマジェが負けるわけないしな」
警察官は、性別から年齢まで全く異なる両者を見て、同時にたしなめる方法を模索するように、顔を一度見合わせた。無言の内に作戦が決定され、年上の方の警察官が言った。
「あの、一旦その場から動かないで、二人とも」
乃亜は言うことを聞かずにデリカトラックの助手席側に回り込むと、ロープが引っかかっているフックに指を引っかけて、力いっぱい引っ張った。
「ちょっと! じっとしてなさいって!」
若い方の警察官が言ったとき、乃亜は端に引っ掛かっているロープを外して、ブルーシートを浮かせた。年上の警察官が、隙間から覗いた積荷に気づいて、顔色を変えると楠木に言った。
「あんた、ちょっと地面に膝をついて」
若い方の警察官は、ブルーシートをさらに引っ張った。荷台の中身が橙色の街灯に照らされて、乃亜は仰向けに寝かされた山田の目を見たが、テープで口を塞がれていて、唸り声しか聞こえなかった。乃亜は身を乗り出して、力任せにテープを剥がして言った。
「大丈夫ですか?」
窒息する寸前になっていた山田は、大きく口を開けた。年上の警察官が楠木を取り押さえ、若い方の警察官が無線に食らいつくように応援を呼んだ。乃亜がふらふらと路肩に座り込んだとき、クラウンマジェスタから降りてきた梨子と真里佳が傍に駆け寄った。乃亜は首を横に振りながら、荷台の中を覗き込もうとする二人を止めた。
「見ないで」
手足を縛られた山田の、開いた口の中には、指輪が通ったまま切り落とされた薬指が突っ込まれていて、舌の先端は切り落とされていた。
楠木尚人は、殺人未遂で現行犯逮捕された。それから一週間が経ったのが、未だに信じられない。時間というのは放っておいても過ぎ去っていくが、歩調を合わせないと頭の中は取り残される。そう思っていたが、新生中寺家の中では、ちゃんと一週間が過ぎていった。梨子は、シリアルをボウルにがらがらと投入し、コーヒーを二つ持って台所にやってきた真里佳に言った。
「早いね」
「うん」
真里佳の手元には、食らいつくように見ていたスマートフォンはない。梨子は自分のボウルに入ったシリアルにパックの牛乳をかけると、真里佳にパックを差し出した。
「どれぐらい?」
「あーもう、お気持ち程度で」
真里佳が遠慮するように言うと、梨子は自分のボウルへ注いだのと同じ量を入れて、残りを飲み干した。真里佳は苦笑いを浮かべた。
「お気持ち、頂戴します」
「私のお気持ちだよ、それが。健康に育つのだ」
楠木だけでなく、病院に運び込まれた山田芳人も捜査の対象になっている。古いナイフと懐中電灯を持っていて、それがDNA鑑定され、竹下早紀と牧田流花の血だと判明したからだ。治療が終われば、これから長い裁判が始まる。梨子は、デリカトラックの運転席を覗き込んだときに、ナビが住宅街に設定されているのを見て、真里佳の直感は正しかったと確信した。そして、ナンバープレートの脇に吊るされた、リスのぬいぐるみ。真里佳に『取らないの?』と訊くと、『あれはクラッシーからの、楠木さんへの感謝の気持ちだから』と答えた。今は牛乳で台無しになったシリアルを呆然と見つめているが、それが真里佳だ。
梨子は、乃亜から届いたメッセージを開いた。山田には長い刑が待っているだろうが、楠木の方は殺人未遂とはいえ、何年か経てば出所する。乃亜にその不安を伝えると、『逆恨みルートはあるかもね』とあっさりとした返事が返ってきた。そして今も、その続きが届いている。
『とりま引っ越したらオッケーでしょ。系列店に移るって手もあるしさ』
梨子は、シリアルを食べ始めた真里佳に言った。
「記事は、編集してないの?」
「一昨日見たら、もう完全に書き変わってた」
真里佳はそう言うと、興味を完全に失ったように力なく笑いながら、シリアルを消費する作業に戻った。梨子はその様子を見ながら、思った。真里佳の頭の中をずっと占有していた、大きな記憶の塊。それがほどけて完璧に整理され、無機質な棚へと収納された。大抵は、二度と開けないままその前へ新たな記憶が置かれていき、いつかそれは、ラベルに書かれた文字だけの記憶になる。前だけを向いて生きている間は整理されているほうがいいけど、いざ振り返ったときに棚だらけの空っぽな部屋だと、それはそれで寂しい。梨子は言った。