Fray
梨子は呟くように言うと、スマートフォンに視線を落とした。これじゃ、どちらが反抗期か分からない。真里佳は頭をタオルに包まれたまま俯いた。梨子がやろうとしていることが、分かった気がする。それを言いたいけど、火を消すのと同時に、この人間関係にまで水を被せてしまうことになるかも。そうなれば今度こそ、旧中寺家の思い出は話せなくなってしまうかもしれない。元を辿れば、私が記事を編集したことがきっかけなんだから、黙るのは私の方だ。
「ドッペルになってるよ」
梨子が言い、真里佳は首を横に振って、強く否定した。
「なってない。心配なだけ」
「風邪ひくよ」
梨子は言い、真里佳が部屋に入ってブローを始めたのを確認してから、小さく息をついた。おそらく真里佳は、何をしようとしているか、気づいているだろうな。まずは山田に、クラッシーという名前をどこで耳にしたのか、それを訊く。ある程度関係性ができていないと嘘をつかれる可能性もあるし、充分時間をかけたつもりだ。素のリアクションを見たいから、直接聞いた方がいいだろう。後は、トラックに吊られたぬいぐるみを自分の目で見て、撮影する。ただそれだけのことだ。
目覚ましが鳴り、まだはっきりと起きていない頭で考える。夏美と昭人は、宝物だ。ここ二週間、それを頭の中で言い聞かせてきた。頭の中に飼ってきた『うさぎ』が納得しようが、牙を剥こうが、そこは揺るがない。買ったばかりの家、忙しいが充実した仕事、全てが作用して、今があるのだから。昨日の夜は椎名が早めに切り上げたから、昭人と久々に遊べて、夏美とも話せた。ほとんど酔っていない姿を見て夏美は『自制できてる』と言い、にっこりと笑った。
昭人が、スイッチが入ったように目をぱちりと開け、それをテレパシーで察したように目を開けた夏美が、目覚まし時計を止めるように昭人の額に触れた。
「それは目覚ましじゃないよ」
山田が言うと、夏美は笑いながら手を宙で振った。
「止めてー」
目覚ましを止めて掛け布団をのけると、一番に起き出した山田は見本を示すように伸びをした。昭人が布団と半分同化したまま手だけを伸ばして再現し、そのまま目を閉じた。
「あら、また寝ちゃったね」
夏美はまだベッドの上だが、すでに朝の準備を段取りし始めていて、その目には光が灯っている。まずは、手を挙げたまま二度寝に入った昭人を起こすところから。昭人は何故か、父親の声では起きない。夏美と目が合い、他の準備を頼むと目で合図された山田は、一階に降りて台所へ入った。夏美には、家の中のことを手伝ってくれていると評価をもらっているが、実際のところ手伝いレベルだ。何がどこにあるかも分からないし、基本的には全てをお膳立てしてもらって、それをこなすだけ。会社で高島が同じレベルのことをしていたら、椎名に配置転換を提案するだろう。
昭人の朝食は、夏美が決める。こちらの担当は、大人二人の朝食。味付けも分量も、大人同士の暗黙の了解で、かなりの振れ幅がある。昭人のことになると、結局のところ夏美には敵わないし、昭人がぱくぱく食べるような何かを作り上げる自信は、あまりない。
夏美に半分抱えられながら昭人が降りてきて、山田はフライパンの真上に手をかざした。
「ちょっと、顔色が悪いね」
山田は卵を割ろうとしたとき、夏美の言葉が自分に向いていることに気づいて、顔を上げた。
「おれ?」
「うん、最近仕事も忙しいし。お酒でごまかされてるだけでさ、実際は疲れてるよ」
夏美は目を細めながら顔を見ていたが、再確認したようにうなずいた。
「今日は私に任せて」
「いいの?」
山田が言うと、エプロンを巻いた夏美は口角を上げて微笑んだ。
「まあ、見てな」
山田は、昭人と並んで台所の椅子に座り、顔を見合わせた。
「かーちゃんは強し」
「おとこってこと?」
「ツヨシじゃないよ、強いって意味だ」
山田は笑いながら、片目を痙攣させるように瞬きさせた。お前におれみたいな『火花』がないことを、心から願っている。今日で終わらせる。頭の一部を切り取ってでも、あの『うさぎ』には最後の餌を食わせて、この人生から退場してもらう。
学校はいつも通り六限、持田歯科のバイトは午後八時まで。家に帰ってご飯を二人分作ったら、梨子の分をラップして保存し、自分の分を食べる。お風呂を済ませて、十時半ごろに梨子が帰ってきたら、ご飯を食べながら話すのをコーヒー片手に聞く。当たり前になった、中寺家のルーティン。それが壊れるのは嫌だし、そうなろうとしているような予感だけがずっと、まとわりついている。その予感の爆心地は『梨子が帰ってきたら』という部分。この二週間、お互いに地雷を踏まないようにするのが精一杯だった。
真里佳は持田歯科との通話履歴を眺めながら、バス停から歩き出した。学校が終わってすぐに、電話を掛けた。昼からのシフトで入っている先輩が出て、体調が悪いことを伝えるとあっさりと休みの許可が出た。川沿いの道へ続く道は、まだ明るい。夕方六時。空がようやく温度を失って、青色一色に染まりつつある。クラッシー印のパステルブルーではない。そこは、暮れかけた空ですら、はっきりと線引きしている。お前一人で片付けろと。そのつもりで、また来てしまった。
橋から川沿いの道を眺めていると、前は暗くて見えなかった川べりをシロツメクサが白く彩っているのが、目に入った。まだ色を残す川の流れも静かで、どこか懐かしい。あの花を見れば、記憶はクラッシーが作ってくれた友情の証と直結する。写真に撮っていればよかったけど、当時はそんな手段を持っていなかった。川沿いの道へ入り、真里佳は歩き続けた。学校指定のローファーとは別に、スニーカーを準備した。いざとなれば走れるし、足音は鳴らない。事故を誘う交差点を抜けて、真里佳は前に来たときと同じように、首を伸ばして様子を窺った。赤い郵便ポスト、廃屋。その前にトラックが停まっている。真里佳は足を踏み出そうとしたが、記憶と違う部分に気づいて、動きを止めた。
今日は、前を向いて停まっている。ぬいぐるみは後ろに吊られていた。家に近寄らなければ、撮れない。真里佳は一度前を通り過ぎると、郵便ポストの前まで戻った。廃屋の中は静かだ。電気が点いている様子もない。逃げられるように鞄の紐を縮めて体に密着させると、真里佳はスマートフォンを取り出した。トラックの運転席側から回り、なるべく家から死角になるように身を低く屈めて、荷台の下を覗き込んだ。ナンバープレートの隣にあるフックのような輪。そこに結ばれたぬいぐるみの頭は、間近に見るとやはり、あのパステルブルーだった。真里佳はスマートフォンを掲げて、シャッターを押した。
「危ないよ」
真上から声がかかり、真里佳は飛び上がった。荷台の端で頭をぶつけ、ふらつきながら立ち上がると、逃げようと体をひるがえした。鞄が固いものに激突する感触を感じたとき、頭が平衡感覚を失ったように掴みどころをなくし、真里佳はふらついてトラックの車体に手をついた。
「ごめんなさい」
頭が認識していない言葉が出てきて、真里佳はよろけながら道路に飛び出そうとした。
「殺さないでください……」